鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
327/590

た出羽の方がむしろふさわしい。一方,起点を変えて,鎮守府胆沢城の東北(鬼門)を守護するという見方もある。しかし近年の発掘調査により,施設としての胆沢城は十世紀後半には衰退・廃絶したと推定されており,十世紀末という先の推定に立つならば,既に起点を失うことになる。同様にエミシ鎮圧というのもまた訂正を迫られる。十世紀後半,既にエミシ反乱の記事は当時の文献から完全に姿を消し,この地にひとまずの平和が訪れたことを告げる。それは受領官的鎮守府将軍(主に東国武士)と有力工ミシ系豪族(阿倍氏,清原氏など)による新たな秩序と,彼らにある程度の自主的裁量権を認める,政府の間接的支配体制の確立によってもたらされたものに他ならない。従前のように政府とエミシの対立的構図を想定し,国家仏教の論理をあてはめることは,当時の東北の社会状勢にはもはやそぐわない。無論,成島毘沙門堂の歴史は伝吉祥天像の存在からも九世紀に遡ることが予想されるから,既に九世紀に兜践毘沙門天の信仰がこの地に根付いたとして,その延長線上に位置づけることや,また,逆に十世紀後半ならば東夷の酋長ともいわれた阿倍氏をその造像主体とする考え方も生まれよう。しかし同寺には承徳二年(1098),坂上氏の発願になる伝阿弥陀如来像や,隣接する熊野神社裏山の平安時代の経塚の存在も知られる。丈六像造立の背景には豊かな北方資源を求める中央貴族や東国軍事貴族,そして教圏拡大を目指す教団の姿も重なってくる(天台第二十六世座主院源が陸奥守平元平の子息であることなどは参考になろう)。いずれにしろ,東北という特殊な地域性に閉じ込めず,普遍的な信仰の中で他の作例と同列に論じる必要がある。辟邪の毘沙門天平安時代も後期になると,毘沙門天信仰は目に見えて多様化してくる。福徳神としての性格や,ここで述べる修正会の追1難の鬼追い役,すなわち辟邪絵の中に描かれる,弓で鬼を射落とす,辟邪神としての信仰もその一例である。『阿沙縛抄』に「世人弓に箭をはけて引きたるを兜践毘沙門と云う也」とあるのは,兜践の定義としては首肯しがたいが,翻って,兜跛毘沙門天の辟邪の性格を示すものと読めば理解される。大治五年(1130)の園宗寺の修正会に「竜天毘沙門鬼走」(「中右記』)と見えるのを早い例とし,以降,寺院の修正会において宮中の行事であった追i難を取り入れ,その鬼追い役を,それまでの方相氏に代わって毘沙門天が演じるようになるが,この修正会にお-318-

元のページ  ../index.html#327

このブックを見る