鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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ける毘沙門天の参入とあわせて注目されるのが,承暦二年(1078)に修正会(吉祥悔過)の本尊として造立された法隆寺金堂の吉祥天と毘沙門天の対の造像である。『最勝王経』に基づき両者を対に祀ることは,わが国でも文献上は早くから知られるが,それまでの吉祥悔過の本尊は遺例の上からも多くは独尊であったと推定され,平安後期になって見られる対の造像が,追灘の毘沙門天参入の背景とも無関係でないことを予想させる。保延元年(1135)頃の作とされる安養寺像も吉祥天像と対であり,また遡って,既述の達身寺や観音寺の仏像群の中にも一対らしき像を見い出せ,これら兜践毘沙門天像も同じ分脈でとらえられる可能性がある。わが国の修正会において毘沙門天が重要視されるようになる直接の契機は定かでないが,おそらくは武士の台頭とともに毘沙門天に本来そなわる辟邪の性格が,時代の要求に応じてクローズアップされてきたことによると考えられる(注10)。その意味ではもう少し視野を広げ,例えば先述の播磨国分寺の例にみる新羅との関係についても,調伏すべき目前の敵という即物的対象を越えて,より観念的に追灘の鬼に通じる対象としてとらえることもできよう。新羅はその武力侵攻もさることながら,疫病(疱癒)をもたらす原因としても恐れられた。追{難で追われる鬼は,疫鬼だから,まさに毘沙門天は疫病を封じる役目を担っていたことになる。新羅滅亡の後も疫病に対する危機感は無くなった訳ではなく,西日本,ことに山陰地方の遺例はその関連であらためて注目してみる必要がある。そして外国と境を接する辺土という地理的環境においては,九州や東北はもちろん,伊豆大島薬師堂や新潟金蔵院などの遺例も例外ではない。結び平安時代にわが国にもたらされた兜跛毘沙門天像は,当時必ずしも主要な尊格であったとは言い難いが,観世音寺や石山寺の優品をはじめ,清涼寺や奈良博の東寺像の模刻像成島毘沙門堂の巨像達身寺のおびただしい群像など,実に多様な展開を見せ,平安彫刻史を彩った。その形と信仰の多彩さは,確たる儀軌を欠いたが故のことと言えるだろう。しかしながら鎌倉時代以降,毘沙門天が変わらず信仰され続ける中で,兜践という異形像はほとんど姿を見せなくなる。難解,新奇であるほど効験が期待された平安仏教から,庶民にも分かりやすい平明さを求める鎌倉仏教への移行にともない,戸籍不明とも言える異国性を帯びた兜践形は顧みられなくなったのであろうか。その衰退の歴史を探ることもまた兜跛形の意義を問う一つの方法であろう。兜跛-319-

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