鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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まさき「1953年」展の見解には基本的に同意するが,本論ではまず第1章で,“日本的なも第1章前衛美術と“日本的なもの”とをめぐる言説の一般的傾向会「1953年ライトアップ一新しい戦後美術像が見えてきた」がある(主催:多摩美術大学,目黒区美術館,朝日新聞社。以下「1953年」展と略記)。そのなかに「引き裂かれた日本・私ー戦前からの多元文化体験者」と題する一章が設けられており,「H本と西洋,民族性と国際性,伝統とモダニズム,リアリズムとアヴァンギャルドの二極の間の対立と融和あるいは綜合の試み」という図式を1950年代の芸術思潮に認めたうえで,「こうした二極の緊張関係の中で,制作と思索に打ち込んできた人々」5人が紹介された(注3)。の”がどのように論ぜられたかを,整理し報告する。これは同展では展覧会としての批評的見地から詳細には扱っていない。しかし当時美術批評か大きな影響力をもっていた事実を顧慮すると,言説の一般的傾向について整理しておくのも基本的な作業と考える。ここでは『アトリエ』『藝術新潮』『美術手帖』『美術批評』『みづゑ』など当時の雑誌を基礎資料とした。そのうえで,第2章と第3章では筆者が特に注目する二人の作家について論ずる。ひとりは岡本太郎(1911・明治44-1996・平成8)である。岡本は「1953年」展で上記の5人のひとりとして紹介されており,また他にも同じような観点から岡本を扱った論もあるが,彼の重要性について改めて考察したい。もうひとりは,山口正城(1903・明治36-1959・昭和34)である。作家として彼は岡本ほどの知名度はない。しかし本論の構想は,筆者の山口正城作品研究から形成されてきたものであり,本論の課題も岡本太郎も山口の周辺への関心として浮上してきたことをお断りしたい。終戦後の1,2年間は,“日本的”は否定されるべき特質でしかなかった。少なくとも,文化をめぐる言説の表面では。理由は先述のとおりであり,その結果として戦後の自由主義・民主主義・近代性という価値と対立する「封建的・前近代的なるもの即日本的と考えられたのはいうまでもない」(注4)という状況が出現していた。こうした状況は美術をめぐる言説でも同じであった。特に前衛美術を擁護する立場からは抽象とシュルレアリスムこそ近代社会が生んだ近代絵画の正統な後継者であり,日本の伝統を否定してもモダニズムという国際性・普遍性を実現しなくてはならぬと-24 -

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