いう論調か目立つ(注5)。伝統を肯定的にとらえる論がようやく現れた時には,1948年を迎えていた。長谷川三郎の「新芸術」である(『みづゑ』508号,1948年2月)。戦前いちはやく抽象絵画を発表した彼は,すでに当時からモダニズムと日本美術の古典とに通じ合う美を認めていた。1948年のこの論では控え目な調子ながら,新芸術の発展に寄与するものが「我が古美術のなか,広く東洋美術の作品のなか」にあり,それを西洋の古典とともに新しい視点で見直すことを提唱している。今日から見ればとりたてて主張するまでもないあたりまえの感がある論旨だが,この時点の前衛美術関係ではこれが精いっばいであった。変化がはっきり現れるのは1950年である。最大の動因はイサム・ノグチの戦後初の来日であった。1950年5月に来日したノグチは日本の前衛作家や建築家から期待をもって迎えられ,旧作品の写真や日本で制作した新作も含めて展覧会を行い話題を集めた。ノグチが9月に帰国した後,彼こそ次のテーゼの最良の実践例と認めた論が現れている。「近代的ということは必ずしも非日本的ということを意味しない。その人の思想と感覚にのって日本的なもの,古いものも近代化しうるし,これを国際的水準にもって行くことができる」(注6)。この1950年は読売新聞杜主催「現代世界美術展」で戦後注目されているフランスの中堅作家6名の実作品が初めて紹介され,また美術雑誌で同時代の国際傾向がさかんに取り上げられた年でもあった。翌1951年にはフランスの戦後世代を初めてまとまった形で展覧した「現代フランス美術展(サロン・ド・メ日本展)」,「マチス展」,「ピカソ展」などがあり,海外のモダニズム作品が実はそれぞれの民族的伝統や古典に支えられていることが実感されるようになる。そして続く52年,ヨーロッパ五ケ国とブラジルの作品約200点と日本の作品約200点が同時に展示された毎日新聞社主催「第1回日本国際美術展」をきっかけに,国際性と日本性あるいはモダニズムと伝統をめぐる議論は一気に沸騰する。それは海外作品に比べて,日本の前衛美術の多くが根無し草的な表面的モダニズムに陥っていると作家も批評家も痛感したためであった。その後もいくつかの海外での国際展への日本の参加,「メキシコ美術展」の開催(1955年)などを経ながら,議論は1957年を過ぎるまで美術ジャーナリズムをにぎわした。そのなかには,前衛美術作家こそが伝統や風土性(当時は“クリマ”と言われた)という“日本的なもの”と取り組まねばならないと提唱する批評家・作家の発言も少-25 -
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