鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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⑱ 谷文昆画『名山図譜』の研究研究者:佐賀県教育庁文化財課主査福井尚痔はじめに京都の医師橘南鉛(1754■1806)の紀行文『西遊記』(寛政七年刊)の冒頭,伴高践による序文に「名山大川を探るは丈夫のしわぎ成べし」という一節が引用されている。また,大田南畝(1749■1823)の『三餐余興』(明和四年刊)では,南畝が若い頃から山水に遊ぶことを好んだことや,名山を見尽くすことの難しさが記されている。江戸時代後期は,旅が普及した時代で紀行文が盛んに作られているが,これらの記述から,名山愛好の傾向が知識人を中心にあったことが知られる。研究のテーマとした『名山図譜』は,文化二年(1805)春に刊行されている。天明六年(1786)の『都名所図会』にはじまる秋里籠島による各地の名所図会,寛政十一山図会』などの刊行は,『名山図譜』の企画のきっかけのひとつとなったと考えられよ『名山図譜』は,文化九年(1812)に『日本名山図会』と名称を変更するが,名所図会の刊行が盛んであった当時,図譜という名称で刊行されたことは示唆的で,名所図会とは異なる特色を見出すことができる。つまり,同時代に盛んだった各種の名所図会が,地誌的情報を盛り込むことを主眼とした説明的で平明な図であるのに対し,『名山図譜』は名山を中心とした景観を緊密な構成に仕上げるなど,絵画的であるといえよう。本研究は,これまで美術史の分野から本格的な研究が少なかった『名山図譜』について,その実景描写の具体的な方法を探るため,山の選択,実景との関係,写生との関係,猫法などの観点から考察しようとするものである。まずは,『名山図譜』の概要からみていく。1.概要『名山図譜』は,木版単色刷りの袋綴じの冊子本で,「天」,「地」,「人」の三冊からなり,各冊とも縦29.4糎,横19.8糎の大きさである。図は,見開きの左右半丁で一続きの画面をなし,右あるいは左の上隅に山の名称と所在する地名が記されている。つ。年(1799)の淵上旭江『山水奇観』正編,享和元年(1802)の鈴木芙蓉模刻『唐士名-334-

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