鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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2.山の選択『名山図譜』には,序文の構成の異なる版があり,文化四年(1807)以降は,「地」に奥州の磐手山,玉東山の二図および川村博の識語が加わって計九十図となる。さらに,文化九年(1812)には『日本名山図会』と名称を変えて刊行される。東洋文庫の岩崎文庫所蔵本を調査したが,磐手山と玉東山が加わる前の本で,「天」の冒頭に享和二年(1802)四月の柴野栗山の序文,次いで同じ年の岩瀬華沼の序文,さらに文化元年(1804)の文晃の自序があり,山の図,二十六図が続く。「地」には三十図,「人」には三十二図が収録され,「人」の最後に文化元年の河村舟庵の政が附属している。『名山図譜』は,山水を愛好した川村舟庵の企画によることが,序文および践から明らかである。また,文見の序文は,痔庵が海内の山水諸勝の図を多数所蔵していたこと,文晟が描き贈った数十幅を部屋にひろげ臥遊をたのしんでいたことに加えて,享和二年(1802)夏に文晟が「百余景を小縮」して版下絵を制作したこと,文化元年(1804)九月に「刻成」とあり,この頃,版木ができあがったことを伝えている。このことから,出版年を文化元年とされることがあるが,樋口英雄氏の研究によって,実際は文化二年(1805)春であることが明らかにされている(注l)。企画・編纂に携わった川村弄庵については,森銑三氏の「川村舟庵とその名山図会」に詳しい(注2)。それによると,奥羽南部藩の出身で,江戸に出て医者として知られた人物であった。また,『甲子夜話』に痔庵に関する文があり,山の形などを谷文屈に指図したとされるが,具体的にどのような指示があったかは不明である。ただ,図の制作については文昆が主導的な役割をはたしたと見るのが妥当と思われ,痔庵の役割は名山の選択にかかわるものではなかったろうか。『名山図譜』は,国内の山に関する最初の本格的な集成としての重要性も持っている。まずは,どのような基準で名山が選ばれたのか考えてみたい。深田久弥の『日本百名山』に,『名山図譜』には「小山」が多く選ばれていることが指摘されている。深田氏は房州の鋸山(329メートル),伊勢の朝熊山(555メートル)を例にあげているが,『名山図譜』の山が高さや規模だけで選ばれたのではないことはいうまでもない。たとえば,『名山図譜』収録のうち筑波山,箱根嶺,白山,浅間山,富士山,三上山,騰吹山(伊吹山),比良山,比叡山,葛城山,春日山,二上山,吉野山,吉備中山は,-335-

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