鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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4.写生との関係も多く,たとえば九州の山では,彦山,阿蘇山,霧島山がそうであり,特に彦山は実景とは大きく異なっている〔図3〕。このような,実景再現における忠実さの精度の違いは何によるものなのか。『名山図譜』は,特徴的な山の姿を猫写することを主眼としているが,実景に対する忠実さの精度は,制作の前提となった写生との関係を考慮する必要がある。今回の調査で,寛政八年(1797)の文屎の『大和巡画日記』(東北大学所蔵)のなかに,『名山図譜』の吉野山と二上山に類似する構成の写生があることを知った(注3)。『名山図譜』の文晃の序文に,文晟自身が各地を漫遊する際,名山大川を必ず図にしたことを記しており,「名山図譜』掲載図の多くは文昴の写生に基づくものと考えられるが,この二図は写生の具体的な例である。また,文屎の画稿類(出光美術館蔵)のなかに那須山の下絵にあたると思われる図と,各図に記述される山の名称と所在地名の訂正箇所を記した紙片があることがわかった。これらから,『名山図譜』の周到な制作過程の一端を窺い知ることができる。一方,『名山図譜』掲載図のすべてが文晃の写生によるものではない。つまり,二つの山の図とともに文化四年(1807)に追加された痔庵の息子川村博の識語によって,巌鴫山(磐手山)の図は,文堤の弟の谷元旦(島田元旦)の写生によって制作されたことがわかる。また,蝦夷の五つの山についても,元旦の写生によるものであることか指摘されている(注4)。元旦のはか,文晶の門人の一人である白雲の作品の中にも『名山図譜』と構図など類似する図があることも,はやくから指摘されている(注5)。大正時代の田口松圃氏の研究にはじまり,西村貞氏においては四国の五剣山と象頭山が白雲からの図からの借用であるとし,さらに九州の図についても白雲の図による制作である可能性も論じられている。また,内山淳ー氏は,山陰の大山と妙義山の中嶽石門についても白雲の図に同様の構図であることを付け加えている。さらに,白雲の高野山の図も『名山図譜』掲載の高野山と影響関係にあるように思われる(注6)。このように,『名山図譜」制作の前提となった実景写生は,必ずしも文見自身の写生によるものではないが,いずれも文晃の身近な関係にあった人物の手になるもので,-337-

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