鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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注米点を使用した米法山水に通じるものである。『名山図譜』の点描風の描線はかなり小刻みなものだが,たとえば,『芥子園画伝初集』に掲載する米友仁と記された米法山水の図と,三上山はよく似た形態になっていることに気づく。ほかにも,奥州の南呂山は中国の画譜をはうふつとする山水描写である。実景の再現的描写のなかに,このように中固の画譜的山水描写が混在する点を『名山図譜』の特色に加えることができよう。彦山が実景と大きく異なり,画譜的山水描写が採用されている点について,彦山に関する情報の少なさや正確な写生がなかったことに起因していると考えるのは短絡的であろう。『名山図譜』において,画譜的山水描写の使用は意図的に試みられているというべきである。結び『名山図譜』が刊行された文化二年(1805)は,文麗四十三歳にあたる。文見の画歴において,享和から文化年間は中期にあたり,『名山図譜』は中期初頭に位置する作品である。『名山図譜』と制作時期が近い文化元年(1804)に,文昴は実景描写による作品《熊野舟行図巻》を描いている。《熊野舟行図巻》では,大和絵的手法による実景描写を試みている。西洋画学習の成果である寛政五年(1793)の《公余探勝図》の写生描写から,享和から文化にかけてのこの時期,写生を基本に古画の描法を取り入れた実景描写への推移を確認することかできるのである。文晟は,文化中期以降,実景を描写した作品は少なくなり,実景を題材にした文化十二年(1815)の《彦山真景図》や文政九年(1826)の《松島暁景図》においても,謹直な描写はみられない。一方で,文化七年(1810)の《秋景山水図》のように,『名山図譜』の南昌山をほうふつとする山水図が制作されている点は注目される。文麗の絵画学習の基本姿勢は,まず古画を学び,後に写生に移り,さらに「写生を破り一家を成す」ということであった(注7)。享和から文化初年に制作された『名山図譜』は,「写生を破り一家を成す」ための過程を示している。(1)樋口英雄「絵入本の研究文献(8)『名山図譜』の異版」(『日本古書通信』706号昭-339-

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