化という前衛美術が陥りがちだったイデオロギーに対して,批判的視点を獲得することができた。これは成果である。次に問題点だが,モダニズム自体に対する根本的な批判的視点を形成し得なかったことには,筆者としては歴史的限界を認めたい。指摘しなくてはならないのは,本質としての“日本的なもの”の自明性がほとんど疑われなかったことである。それは“日本的なもの”という観念と過去の実作品とをともに対象化し両者をフィードバックさせ合うという,思考の絶え間ない往還運動を忘れさせた原因でもあり,忘れた結果でもあった。そしてまた,さかんに提唱された伝統に対しての“新しい視点”とは,軍国主義の眼ではなく民主主義の眼で見直そうという提唱に等しかった。したがって“日本的なもの”を検討し直す根拠は,結局政治的イデオロギーがとり代わった事態にしかなかったのである。政治的イデオロギーが変わっても観念としての“日本的なもの”がほは無傷に生き延びたのは,逆に言えばその観念がイデオロギー批判としての力を全く有していなかったためではないのか。そしてその原因が“自明性という実感”であるならば,むしろ根元にある実感こそが検討し直される必要があったのではないか。そこまで届かなかったのは,問いの掘り下げとして不十分と評さざ‘るを得ない。“日本的なもの”の先験性・自明性はどのように解体できるか。ひとつの方法はすでに指摘したように,過去の美術作品と観念との間で思考の往還運動を続けることである。では他の方法はないのか。その実践例を筆者は岡本太郎と山口正城に認める。まず岡本について論じよう。対立する二つの梱に引き裂かれながら生きるという「対極主義」をとなえ,戦後の前衛の最先端をまさにひた走っていた岡本が,日本の過去に眼を向けた皮切りか1950年の「光琳論」であり(『三彩」40■42号,1950年3■5月),その2年後には「縄文土器論」を発表(『みづゑ』558号,1952年10月),従来の伝統観に大きく変更を迫った。以後“日本的なもの”をめぐる探求が,『日本の伝統』(1956)『日本再発見一芸術風土記ー』(1958)『忘れられた日本<沖縄文化論〉」(1961)『神秘日本』(1964)という著述に結実していく。岡本が“日本的なもの”へ眼差しを向けたのは,彼の芸術観そのものに起因する。彼はまず今日の芸術の役割を,「失われた人間の全体性を奪回しようという情熱の噴出」第2章岡本太郎一根源を求めるフィールド・ワークと思考-27 -
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