2.シュトラールズントの聖マリア教会の内部装飾のための構想図18世紀後半にイギリスで起こったゴシック・リバイバルは,ドイツではゲーテが先説明としても有効であると思われる。『雪の修道院墓地』も,無傷の教会を廃墟として描いたものであり,それは,グライフスヴァルトのヤコブ教会の内部の描写に基づいている。1815年頃に制作された,ャコブ教会の内陣を身廊からとらえた2点の作例(1点は鉛筆と淡彩,もう1点は水彩による,共に消息不明)では,屋根は内陣とその手前の弯窟だけを残してくずれ,柱の列が大きく威圧的に描かれている。フリードリヒは,このゴシック教会の内部を改変し,高く引き伸ばし,その大部分が窓となるように描いた。つまり,そこにプロテスタントの牧師が立っている内陣は,中世のゴシック教会がそのまま再現されたものではなく,フリードリヒの描いた破壊されていない教会と同様に,フリードリヒによって創造された,「新ゴシック様式」で表わされている。この高くそびえる後陣は,過去のものとして乗り越えられた教会が,再生する教会として,その再生した姿を予示するものとなる。フリードリヒは,『雪の修道院墓地』において「新ゴシック様式」の構想された廃墟を描いたのとほぼ同じ時期に,1817年から1818年にかけて,シュトラールズントの聖マリア教会再建のための内部装飾を,新ゴシック様式で構想した。聖マリア教会は,14世紀に建てられたゴシック教会で,シュトラールズントの最も重要な教会の一つであるが,ナポレオン戦争中にはフランス軍の占領下に兵営とされ,その内部が破壊された。それで,その破壊された内陣の,礼拝式のための装備を再建する計画が,1817年の初めに市の参事会によって決定された。ドレスデンのフリードリヒは,彼の最初の師であるグライフスヴァルトの建築家クヴィストルプの推薦を受けて,画家の弟で指物師のクリスティアンが実際の施工を担当することを条件にこの仕事に応募し,1817年の11月には「祭壇と説教壇Jに関する最初の設計図が提出された。この時には,ベルリンのシンケルとの競作となったが(シンケルの構想図は伝わっていない),古典主義ではなく,新ゴシック様式を採用することが市の参事会によって決定され,要請された。駆者となったが,1790年代後半以降,フリードリヒ・シュレーゲルやヴァッケンローダーら初期ロマン派の中世賛美のきっかけとなり,さらに,古典主義に対するドイツ-360-
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