鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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ととらえる(注11)。そのためには「古い日本の不明朗な雰囲気をひっくり返し」ていかねばならない(注12)。この雰囲気の源は「江戸末期までの過去のもの,そしてその直系,亜流」にあり(注13),それらだけが正統で純血の日本文化のように通用している。したがってこの正統性への盲信を砕き,かつまた「新しい時代への踏台」(注14)となり得る伝統の把握が必要だ。こうして彼は縄文土器や光琳のく紅白梅図屏風〉などを,近代美術に通ずる造形性やそれらを成立させた杜会的背景に重点をおいて自らの眼で見直した〔図1,2〕。特に縄文への注目は,当時の伝統論が弥生文化や古墳文化を最初に据え,しかも基本的に「「万世ー系」的な伝統をよしとする」(注15)と指摘されるような論調にとどまっていたのと比較すると,日本文化の多層性をはっきり指摘した点で重要な意義をもつ。ただしここで強調したいのは,岡本が通念上の伝統を打ち倒して,その位置に自らの好む伝統を据えようとしたのでは決してないことである。例えば『日本の伝統』のなかで,彼は中世から近世の庭園よりも縄文土器に共感を覚えることを隠さないものの,慎重にこう書き加える。「私は古代のおおらかではげしくて,そして無邪気な表側文化を,封建時代以来の裏側文化にくらべて,どっちがどうといっているのではない。ともにわれわれの過去です。まずとらわれない率直な目で,単純素朴に,しかしはげしく,徹底的にそれらを見なおし,同時に,われわれじしんの現在をも直視しなければならない」(注16)。ここに示されているのは,いわば偶像の代わりに偶像をもってせずという自主独立の自由な思考である。そもそも彼の対極主義とは,正・反・合の弁証法的思考を拒絶し,あくまで引き裂かれてあるという,いわば精神の運動状態でしかあり得なかった。そして彼はそれを実践して人々に示すことを自らに課していた。ここにいるのは,啓蒙家としての岡本太郎である。その意味で『日本の伝統』は,徹底して啓蒙の意図に貫かれた書である。しかし“日本的なもの”は岡本自身にとって,彼の芸術理念実践の武器にとどまるのでは無論なかった。世界のなかで,自らを含んだ日本人とは何かという切実な自己探求でもあった。それが1957年4月の『藝術新潮』から連載を始めた「日本再発見」(翌年単行本化)以降にあらわになってくる。以後,先にあげた『神秘日本』まで,彼は日本各地を歩き,その地の現在の生活,風習などを調査するフィールド・ワークを展開する。それは若き日にソルボンヌ大学で民族学を学んだ彼にはなじみの方法であり,かつまたい-28 -

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