の民族様式としてのゴシックが讃えられるようになっていた。この過去の様式に対する再評価は,ドイツで,1814年以降,新ゴシック様式として盛んに展開されていく。それはちょうど,ドイツがナポレオンの支配から解放され,ドイツの統一や制度の改革を求めた愛国運動が盛んになる時代にあたる。新ゴシック様式の「ドイツの教会」は,ドイツの政治的な未来と関連して語られ,愛国者たちにとって,その政治的理想像は,宗教の刷新を求める思想とも結びついていた。聖マリア教会の再建計画は,フリードリヒ案の方が採用されながらも,結局,市の逼迫した財政状況のために実現されなかった。画家の提出した図面の主要なものは,現在ニュルンベルクのドイツ民族博物館に所蔵されている。聖マリア教会に関する所蔵作品のうちの主なものは,以下のとおりである。「聖マリア教会の計画された装備を伴った平面図」(ペン,淡彩,60.OcmX 94. 0cm) 「計画された内陣装備の全景」(ペン,淡彩)「内陣装備の構想図」(ペン,淡彩,56.7 cm x 43. 7 cm) 「洗礼壇」(ペン,淡彩,60.5cmX 45. 0cm) 「説教壇J(ペン,淡彩,60.5cm x 45. 0cm) 「説教壇の上の牧師」(ペン,56.5cm X 45. 0cm) 「祭壇」(ペン,淡彩,76.OcmX 50. 5cm) 「聖杯」(ペン,水彩,43.5cm x 36. 0cm) 「洗礼盤」(ペン,水彩,59.ScmX43. 7cm) 「ガラスの内陣仕切り」(ペン,淡彩,43.0cm x 60. 5cm) また,フリードリヒは,1818年に一連の設計図を市参事会に提出した際に,それと一緒に原文で5面にわたる詳細な解説を添えた。この解説からも,彼がこれらの構想図で試みたこと,彼の考えるあるべき教会像を読み取ることができる。フリードリヒは,この計画において,祭壇画を描くことは最初から考えておらず,彼の関心は,礼拝空間の創造にあった。ここでは,聖堂の本質と機能が重視され,プロテスタントのサクラメントと礼拝に必要な装備と祭具が,統一的な様式意思でもって構想されている。フリードリヒの考えでは,教会の建物は,神に対してへり下るためにあり,教会に足を踏み入れた人が「一目で全体を見渡せる」ものでなくてはならなかった(資料2)。そのために,入り口から見た内陣が,祭壇,説教壇,洗礼壇と一つにまとまって見えるように配慮されている。礼拝空間の中心を占める祭壇は,柱の-361-
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