て検討することであろう。そこで,本研究は様々な画中の樹木について,主に絵巻物を中心としてそれらの樹木の持つ象徴的な意味の解明を試みようとするものである。これにより,それぞれの絵巻の各場面や全体の意味もより深く理解することが可能になるものとかんがえられ,さらには各時代ごとの人々の樹木に対するイメージのあり方や,自然と人間との関わり合いについても手がかりを得ることが出来るものと思われる。以上のような問題関心に基づき,本稿においては『春日権現験記絵』(注1)を素材として,そのいくつかの場面についてそこに描かれた樹木の意味について若干の考察を行なうこととしたい。『春日権現験記絵』の世界へはじめに『春日権現験記絵』の性格・成立の事情などについて簡単に概観しておきたい。この絵巻は全二十巻九十三段の絵によって構成されており,それらの全ては春日大明神の霊験を主題とするものである。また,絵巻には目録一巻が添えられており,それによって,この絵巻は延慶二年(1309)三月に完成して春日杜に奉納されたものであり,願主は左大臣藤原朝臣(西園寺公衡),その絵は朝廷の絵所預である高階隆兼によって描かれ,詞書については前関白鷹司基忠とその三人の子息である冬平・冬基興福寺一乗院の良信の筆によるものであることが明らかである。この願主である公衡は当時の貰族杜会の中でも最高の権力者であり,絵巻の制作にもその権勢と財力を惜しみなく投じたであろうことは想像に難くない。この絵巻の繊細・華麗な表現は当時の貴族芸術の最高峰を示し,鎌倉時代の絵巻物のなかでも屈指の名品とされるのも尤もである(注2)。さて,公衡は何故にこの絵巻の制作を企てたのであろうか。前述の目録中の願文によれば,その理由は「予票藤門之末葉,専仰当杜之擁護,不耐敬神之懇志,為増諸人之仰信,大概類集之,遂猶切瑳,全可書加者也」というものであった。すなわち,藤原氏の一門に生まれ,春日社の加護の大なることを思うあまり,さらに諸人の信仰を励ますためにこの絵巻を作成したということである。しかし,これは表向きの理由であり,実際にはさらに現実的な事情があったことが先学によって指摘されている。嘉元二年(1305)閏十二月に公衡は後宇多上皇の勅勘をこうむり,一時的ではあるが失脚を経験していたのである。このときは翌徳治一年(1306)の二月に関東からの申請-366-
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