鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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によって本座に復しており,公衡の失脚期間は僅かニヵ月ほどの期間であった。しかし,承久の乱以来京都政界の中心として長くその権勢を誇ってきた西園寺家にとってはこの事件は屈辱的なものであったと推測される。勅勘をこうむったとき公衡は春日社に祈躊してその罪が解けることを祈っており,徳治二年には公衡は報賽のために春日社に七日間の参籠をしている。また,徳治一年には公衡の娘の寧子が後伏見上皇の女御として入内しており,その皇子誕生などの祈願のためもあったのであろう。この徳治から延慶にかけての期間は,西園寺家にとっては一門の危機と返り咲きという時にあたっており,一段と春日社への崇敬の念が高まっていたものと考えられる。このような状況を背景として公衡はこの『春日権現験記絵』の制作を企てたものと考えられる(注3)。また,近年の研究では,この鎌倉時代の中期から後期にかけては従来の「氏」を中心とする一族の結合が解体し,より細分化された「家」が確立する時期であるとする指摘がなされている(注4)。公衡の『春日権現験記絵』の制作は,広くは藤原氏全体の繁栄を祈願するためのものであろうが,より直接的には西園寺家一流の繁栄を願ってのものと考えることも出来るであろう。このような成立の事情は,この絵巻の表現に如何なる影響を与えているのであろうか。次に,「家」の描かれた場面に注目して,そこに描かれた樹木の意味について考えていくこととしたい。竹林殿家と樹木の関係で注目される場面は,この絵巻の冒頭である巻ーの第二段と三段に連続して現われる。この二つの場面の詞書と画面を順に見てみよう。第二段春日大明神,藤原光弘に託宣を下す。大和国平群郡夜摩郷に,ーの霊地あり。竹林殿と号す。春日大明神御影向の所也。むかし,右馬允藤原光弘,広瀬郡吉南殿といふ所にすみけり。大和河の北の辺をみれば。夜な夜な光る所あり。貴女この所におはして,子孫繁昌すべき所なりとの給。いかなる人,いつれの所より来給ふにかと光弘申ければ,我屋戸はみやこのみなみしかのすむ,みかさの山の浮き雲のみや,かくおほせられて見給はず。ここで注目されるのは春日大明神が影向した場所である。そこは「霊地」であり,「竹林殿」と呼ばれていた。さらに,その場所は春日大明神の言葉によれば「子孫繁昌すべき所」であった。-367-

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