鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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ってその土地の神霊を祭り鎮める行為であり,それによって人間の居住しうる安定的な空間=聖なるコスモス,を獲得する行為であると考えられている。さらに建築の終了後には,その家を守護する様々な神霊に対する祭祀が必要とされたのである(注7)。このような意識を前提にすれば,家に付属する樹木についても祭祀や呪術に関わる性格が込められていたと考えられるのではなかろうか。ここで想起されるものに家を取り囲む「卯花垣」の存在がある。聖なる花ともいうべき「卯花垣」によって区画された屋敷地などの空間は氏神に守られた聖なる空間としての意味を持つものであったと指摘されている(注8)。これは「卯花垣」のみに限ったことなのであろうか。ここで,『春日権現験記絵』の時代からはかなり遡るが,平安末期の白河院政期の成立である『作庭記』をみてみたい(注9)。『作庭記』は橘俊綱が著わした現存最古の作庭についての秘伝書である。この書は陰陽道の影響が強く,それに基づく理論化が顕著であり,そのままを当時の作庭の実態と見ることには注意が必要であるが,それだけに当時の作庭・庭園をめぐる観念を知るには格好の書であると言えよう。そのなかに「樹事」という興味深い項目がある。そこにはまず「人の居所の四方にきを植ゑて,四神具足の地となすべき事」という記述があり,その具体例として「柳九本をうゑて青竜の代と」することなどが説かれている。このように四神相応観による作庭の必要性を言い,「四神相応の地となしてゐれバ,官位福禄そなはりて,無病長痔」であると言う。さらに「凡樹ハ人中天上の荘厳也」と述べ,さらに神仏と樹木の関係に及んで,「仏ののりおとき,神のあまくだりたまひける時も,樹をたよりとしたまへり。八屋尤このいとなみあるべきとか」とある部分は殊に重要であろう。「人屋」の樹木は仏が法を説き,神が天降るときにたよりとするものであるというのである。ここからは当時の人々にとって樹木は家の構成要素として不可欠のものと認識されていたことか伺える。また,この樹木観は先に見た「竹林殿」のそれに直結するものと言ってもいい。このような樹木観は中世前期から広く貴族社会に浸透していたのであろう。「竹材准斐」の描写はこのような樹木観を背景として成立したものと考えられる。むすびにかえて『春日権現験記絵』の「竹林殿」の場面の樹木の意味から出発して,中世の人々の家と樹木をめぐるイメージを探ってみたが,そこからは現代の我々が既に忘れてしまっ-369-

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