鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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うたきかなる場所にも存在すると彼が信じる「芸術の可能性」(注17)を掘り起こすには最適の方法であった。のみならず,美術界における“日本的なもの”をめぐる議論が観念的に上滑りし続ける現状への反発も大きかったのではないだろうか。彼はこう書く。「ナショナリズムだとか,民族主義などという観点からでなく,もっと肉体的に自分の神秘,その実体を見つめなければいけない」(注18)。さて,では彼の“日本的なもの”の探求はどこを向いていたか。かつて彼は縄文土器に「人間における根源的情熱」(注19)を見いだしたが,この“根源”への志向が『日本再発見』の頃から強まってくる。それも縄文土器に注目した時点では,彼は土器という具体物として根源を発見しようとしていた。少なくとも,明快に語らねばならない啓蒙家としてそう記述した。それが今や啓蒙家としての顔に二重写しされるように,己自身のための探求者という顔が現れてくる。語り口は変わらず明快でありつつも,語りがたい何かが投げかけるかげりを隠そうとはしなくなるのである。『忘れられた日本』には,沖縄で岡本を最も感動させたのは御嶽であったと書きつけられている。そこは神が降ると信じられた聖なる場所なのだが,森の中の何もない空き地だった。そして『神秘日本』のラスト,彼は「絶対の何か」を直観し,それを「ながながと指し示した一本の腕」(注20)を幻視する。その腕とは岡本にとって,これから生まれるべき芸術への予感ではないだろうか。“日本的なもの”を探求した岡本は,こうしていかなる形にも仮託できない何かを根源として直観した。芸術でさえ,「指し示す」だけの何かである。この岡本の見解に論評を加えるのは本論の趣旨ではない。ここで指摘したいのは,岡本がフィールド・ワークの方法と批判的思考によって探求を進めたこと,そして強烈な根源への志向を抱き続けたことである。地に足のついたという意味と掘り下げの深さという意味では,当時としてはまれな探求の強度をもっていたと言っていい。それは“H本的なもの”の自明性の根拠にある実感を,解体し得るだけの強度である。むろんこの岡本が直観した「絶対の何か」も,新たな“日本的なもの”として偶像化する危険性を免れてはいない。だがほかならぬ岡本の自由な思考が,それを拒絶し続けるであろう。ではこうした探求は,彼の実作品上にどのように反映しているのだろうか。岡本作品に日本的特色を指摘する批評は当時すでにあった(注21)か,その評者が具体的にどのような特色を指しているのか不明である。私見では,岡本の実作品と図版で判断する限り,1950年代半ば頃から1960年代にかけてある種の変化を認める。この時期,-29 -

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