鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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2.プラートにおける初期の「聖母被昇天と聖帯の授与」の表現母伝の「お眠り」の後,「聖母戴冠」の前ないし聖帯がプラート大聖堂に寄進されるまでの経緯を語るミケーレの伝説の最初に配置された。プラートにおける「聖母被昇天と聖帯の授与」の連続説話表現への取り込みは,大聖堂が保有する聖帯の信憑性を明示する意図の下に行われたと考えられる。この意図は聖帯を渡す行為を強調し,使徒トマスを聖母と同スケールで表すフィレンツェ型図像の形成に影響を及ばしただろう。オフナーとカシディはオルカーニャによるオルサンミケーレのタベルナコロにおいてフィレンツェ型の図像が確立され,以降の同主題の作例に反映されたとしているが(注7),図像の確立へのプラートの聖帯の影響を考慮に入れると1352■66年という年代はかなり遅い。1173年に寄進されたプラートの聖帯崇拝の流行は13世紀末には既に始まり,ファンタッピエによれば1330年代以前に既に聖帯の「伝説leggenda」は「歴史storia」として認知されていた(注8)。むしろボスコヴィッツが指摘したように(注9)'少なくとも次章で述べるメトロボリタン美術館レーマン・コレクションの1330年代後半のベルナルド・ダッディによる「聖母被昇天と聖帯の授与」のパネルの断片〔図8〕において,フィレンツェ型の図像は既に確立していたとみなすべきであろう。レーマン・コレクションのパネルは1337年にプラート大聖堂の主祭壇のためにコムーネからベルナルド・ダッディに注文された祭壇画の断片か否かが問題とされてきた作例で(注10),ダッディの祭壇画はプレデッラ〔図5a-d〕のみがプラート市立美術館に現存する(注11)。プレデッラの5つの区画には聖帯の伝説からの7場面が表されているが,右端が欠損しているためオリジナルは8場面を備えていたと推測されている。1337年と1338年の祭壇画の支払い記録によれば,ダッディに注文されたのは「管区教会の主祭壇に設置されるべき,神の栄光と祝福された聖母と栄光に満ちた聖帯のための輝かしく美しいパネル』であった(注12)。この記録と,プレデッラが「聖母被昇天と聖帯の授与」に続く場面「聖母の墓のまわりに集まる使徒」で始まることにより,メイン・パネルには「聖母被昇天と聖帯の授与」が奉じられていたと推測されている。祭壇画は主祭壇からおそらく同大聖堂内聖帯礼拝堂の祭壇に移され,1434年に撤去された後プラート郊外のサン・マルティーノ修道院に移され,4年後にメイン・パネルのみが大聖堂に戻された(注13)。プレデッラは18世紀初めまでサン・マルティーノ修道院の礼拝堂に残されていた。-373-

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