鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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1367年に祭壇が拡大された際に(注15)レーマン・パネルがピナクルとして付加されレーマン・パネルは1.07x1.36mで縦に合わせた2枚の板から成り,切妻型のパネルの左右と下端が切断されている。聖母は左右3人ずつの天使が支える雲の上のマンドーラの中で正面向きに腰掛け,右手で左下に描かれていた使徒トマスに緑色の聖帯を渡している(注14)。画面左下に残る使徒トマスのニンブスと聖帯を受け取る両手の断片から,ボスコヴィッツは使徒トマスが聖母と同じスケールで描かれていたことを指摘した。失われた画面下部に何が描かれていたかについては様々な可能性が示唆されているが,常に1337年に注文されたプラート大聖堂の主祭壇のための祭壇画の再構成の問題との関連で論じられる。マルキーニは同主祭壇を5連ポリプティクと考え,たと推測したが(注16),プレデッラの枠の構造は同祭壇画のメイン・パネルかポリプティクではなく単一のパネルであったことを示すというスタインヴェグの観察により(注17)完全に否定されるべき推論であることをポープ・ヘネシーが指摘した(注18)。レーマン・パネルが単一のメイン・パネルであったとするならば,下部には片膝をついた使徒トマス,使徒トマスと他の使徒たち,「お眠り」等が描かれていた可能性がある。ただし,プレデッラはその質の高さからベルナルド・ダッディ自身に帰属されるのに対し,レーマン・パネルは天使の頭部の様式(注19)と上部のオリジナルの縁とニンブスに押された刻印の特徴から(注20)ダッディエ房の深い関与が推測されるため,レーマン・パネルは別の祭壇画のために準備されたと考えるべきだろう。レーマン・パネルは1330年代末から遅くとも1340年代に位置づけられ,元々はフィレンツェ型の「聖母被昇天と聖帯の授与」の図像が採用されていたと推測されることから,フィレンツェの画家によって制作されたにせよオルカーニャのタベルナコロ以前に既にフィレンツェ型の図像が造形化されていたとみなすことができる。また,マクリーンが指摘したように(注21),プラートのコムーネに所属していた文法の教師ドウッチオ・ディ・アマドーレが1340年にラテン語で記した聖母と聖帯を賛美する詩チンクトゥラーレCincturaleの中に(注22),「聖母被昇天と聖帯の授与」の図像の描写があることも1340年以前におけるプラートでの図像の成立及び普及を裏付ける。詩では,天使に支えられた雲の上の玉座から使徒トマスに聖帯を渡す聖母の絵が町の至る所にあると述べられている(注23)。聖母を賛美する詩という性格上,記述に誇張が含まれていることは否めないが,その具体的な描写がフィレンツェ型の図像のプラートにおける存在を示唆することは確かだろう。また,1330年頃のマーソ・ディ・バンコ-374-

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