3.結語1351年に聖帯の巡礼地であったプラートがフィレンツェ統治下に入ったことに着目し,1351年の聖母被昇天の祝日(8月15日)の直前の数H間に,ピストイアを包囲攻撃しのパネル〔図4〕においては聖母がマンドーラの中で立つ型が採用されているため,フィレンツェ型図像の成立と普及を1330年代に位置づけることも可能だろう(注24)。フィレンツェにおいては「聖母被昇天と聖帯の授与」の表現はオルカーニャがオルサンミケーレのタベルナコロの制作に着手した1352年以前には遡れない。カシディはオルサンミケーレのタベルナコロの聖母伝の最終場面として「聖母戴冠」でなく「聖母被昇天と聖帯の授与」が選択された理由の説明を以下の2点から試みた。第一に,ていたオレッジォ・ヴィスコンティ率いるミラノ軍の兵糧が尽きて陣営を引き払ったため,被昇天の聖母への感謝が主題選択に反映されたこと,第二に,1351年にフィレンツェがプラートを統治下に置き,フィレンツェ市民の聖帯への増大する関心が反映されたことである。1351年以降の聖帯の管理にフィレンツェが直接的に関わることはなかったが,極めて高貴な聖遺物への関心はフィレンツェにおいても高まりを見せていた(注25)。14世紀末から15世紀初めにかけてフィレンツェで制作された「聖母被昇天と聖帯の授与」の多くは,ナンニ・ディ・バンコのサンタ・マリア・デル・フィオーレの北側扉上のレリーフのようにオルカーニャの図像に倣っている。オルカーニャのタベルナコロは周辺画家への影響力の大きさという観点ではフィレンツェ型「聖母被昇天と聖帯の授与」の図像の原型といえるが,図像の成立の条件を準備し,最初にその図像を普及させたのはプラートにおいてであった。フィレンツェ型の図像の特徴にはシェナ型の図像と比べ明らかに聖帯の聖遺物を強調する意図が認められ,プラート及びフィレンツェの周辺において同図像が採用されたことはフィレンツェ型の図像と聖帯の聖遺物との関連を裏付ける。地理的にフィレンツェの周縁部に位置するプラートでは常に大都市フィレンツェの美術を模倣し,フィレンツェの一流の画家への作品の注文を好む傾向があった。よって,図像に託された意図はプラートの聖帯が要求したものであったにせよ,図像の普及の担い手という意味ではフィレンツェの画家が中心となって行ったことに変わりはない。また,1330年以前に既に写本挿絵にいくつかの「聖母被昇天と聖帯の授与」の表現が見られ,これらの作例と合わせた図像の検討を今後の課題としたい。-375-
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