鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
39/590

戦後すぐの代表作く重工業〉(1949)〔図3〕以後の大作に示された錯綜した構成が徐々に影をひそめ,かわって〈二つの顔〉(1957)〔図4〕や〈遊ぶ〉(1961)〔図5〕のように簡潔で伸びやかな,しかも力動感ゆたかな構成が現れている。それは「ゆとりのある大らかさが張っている」という長谷川三郎の言葉がふさわしい表現だ。ただしこれは長谷川が大津絵に指摘した特色であり,さらに長谷川は先の言葉の頭に「東洋芸術独自の」という形容詞を加えている(注22)。実在の日本をフィールド・ワークする岡本とはむしろ逆に,モダニズムの方から,しかしやはり実在のものにしっかり立って出発し,創造の根源へ眼差しを向け,そこから“日本的”と評される絵画を生み出したのが山口正城である。ただし彼は「評された」のであって,岡本のように積極的日本探求者ではない。しかしそれ故に,“日本的なもの”の自明性に対する岡本とは別の批判的姿勢として示唆するところが少なくない。山口にとって実在するモダニズムとは,素材と技法であった。山口正城の歩みは(注23)に譲り,まず作品について述べたい。1939年から1951年まで,彼は直線による構成の抽象作品を発表している〔図6,7〕。この肥痩のない明快な直線は,製図用の烏口を使ってひかれた。また,1952年からは墨を掃いたような形象が加えられる〔図8〕。これはケント紙(初めの頃はセルロイドも用いられた)に墨やポスターカラーなど水性絵具をのせ,画面にこすりつけて生み出された形象である。紙をヘラのように使うので,山口自身は「ヘラ描き」と呼んだ。そして烏口を自らの意志を反映させるメカニズムとして,ヘラ描きをオートマチスムとして認識し,両者の綜合の一例と自らの絵画を位置づけている。この直線と形象の作品について,瀧口修造は桂ユキや山口長男の作品とともに「何か日本的雰囲気を濃厚に感じさせる」と指摘した(注24)。また長谷川三郎が「日米抽象美術展」(1954)について報告した一文からは,彼が山口作品に「西洋的な慣用語や技法などをマスターし,さらにH本人としての個性的表現」を認めていたことかわかる(注25)。しかしこの“日本的”とはあくまで周囲の評価である。山口自身が画面を決定づける要素として重視したのはまず素材と技法,つまり当時好まれた表現に従えば“メチ工”である。烏口もヘラも,画面上で実現可能なイメージを方向付ける。制限する,第3章山口正城一素材と技法が開く地点で-30-

元のページ  ../index.html#39

このブックを見る