も残っている。京都で法金剛院はもう一つの例で,素晴らしい滝が残っている。これらは皆昭和四十年代に整備,復元されているが,そうしたかたちが割合と元の形に近いかと見られる。東北の平泉の毛越寺,観自在王院の遺跡も優越な地位を占めている。毛越寺〔図3〕の方は,蓬莱島以外,元に「作庭記」にでている「荒磯」の石組み,「洲浜」,「遣水」の遺跡があって,相当豊かな例であり整備の結果,「干潟様」の様子が割合と堅くなってきたが,そのすぐ隣にある観自在王院は,小石で造られた意外に倭絵に近い柔らかい様子を持っている「干潟様」が幸いにより良く保存されている。毛越寺は,以下論じる「源氏物語」にでている池上の旅の寓喩的な要素が十分に現れている。浄士的な性格のなか,いかにも「hortusconclusus」(閉ぎされし庭)や,恋人たちが戯れる魅惑の場所としての「locusamoenus」(愛の園)と比較されるのである。この面では,藤原系統の「hortusconclusus」の優れた例としてみれば良いかと思われる。西方浄土的な庭園の案外有名な例は,西芳寺(もと西方寺)である。元は延朗上人藤原(中原)師員が安元二年(1176)から建久元年(1190)まで造ったと「西芳寺池庭縁起」ではいうが,実際,建久中(1190-99),師員が西方寺を再興したらしい。この庭園は,夢窓国師が暦応二年(1339),四月から十月まで,十六寮舎を立てて,それらの名前は,「碧巌録」の「國師塔様」の公案より再来堂(仏殿),無縫閣,(舎利殿),瑠璃殿(無縫閣の下階),湘南亭,灌北亭,黄金池,合同船のテーマを取って,「西芳寺」の禅寺に改めた。庭園本態は,元の「作庭記」流の庭で,その「霞形様」の二つの白砂だけの中島は平安末期「平家納経」(1163)の絵に描いている霞か島の謎みたいなイメージと良く似ていたはずである。西芳寺は,此の面において,西方浄上のアナゴジの上,更に鎌倉時代の夢窓国師が示す悟りの世界の現前たることとして見られてきた。記号論の上,こうした事は,ペルシャのルーミの[gnostic」(ギノーシース的),つまりスーフィー教の聖人詩人の歌っている「愛の庭」は,禅定の「内外打成一片」という状態に成って,記号の示すところと記号自体が絶対同じで,この場合は,「愛の庭」の中のLover(愛人)とBeloved(神)が同じというギノーシースのなか,記号はなくなる。というと,(gnostic)ギノーシースの庭園の場合は,記号自滅的な記号論として見ることができる。此れもまた本研究のいう「中世化主義」の一つの要素として解釈される。-384-
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