60)著,「東京夢華録」,周密(1232-98)著,「呉林蕉事」などが有名である。また,vヽ゜日本中世時代庭園の様式日本に残っている中世時代庭園の遺跡には,石の選択,整理等が,庭の中に寓話的な遊びとゆるやかな探検のような動き方を語るところが多い。これは,例えば,京都の勧修寺の池側の大石(年中行事絵巻の東三条殿の池側石と比べよ),平泉の毛越寺の遣水遺跡〔図4〕,又築山の石の様式は,面々もおもしろく,変化が伺われる様子である。なかには,池上から見るべき石組みも残っている。こうした寓喩化にまにあうような様式は,(記号論では,C.S.パースの'Firstness'の可能性の余り固まっていない様子を持つ記号と共通性を持つ),毛越寺の鳳来島,荒磯石組み,西芳寺の鶴島などにも伺われる。こうした伝統と大分異なってきたのは,浜松市,三ヶ日町,摩詞耶寺がある〔図5J。もっともこれらの石組みは以前の寓喩化の多いところよりも固まった,輪郭の強いようなイメージが提示されてきた,むしろ鎌倉時代に入ってからのデッサンであるらし宋時代庭園との関係日本中世庭園は,全く残っていない宋時代庭園との関係が複雑な問題だが,文学資料の中に庭園の話を見れば,より多くの手掛かりが残っている。私有庭園の記録では(宋)李格非著「洛陽名園記」,司馬光(1019-86)著「独楽園記」,孟元名(c.1110-宋徽宗の艮嶽庭園には,いろいろな優れた石が立てられた。こうした流行の実際的な例が宋時代絵画にいくつか見られるが,例えに台北市故宮博物館の蘇漢臣の「秋庭戯嬰図」に出ている著しく高い庭石が注目される。周密の話に出ている三十四庭園の多くは造山があって,又太湖石の随分高いのがたてられたという。宋時代庭園伝統と関係深いと思われる庭園には,京都鹿苑寺の竜門滝,その中島(芦原島もと蓬莱島と見うる)に向かって行くような夜泊石。ここでは,宋の新しく日本に来た滝の様式も伺われるし,また夜泊石の平安時代の例よりも相当説話的になって,また,亀島,鶴島などに,石組みがいよいよと似寄る形を持って来る〔図6,7〕。京都天竜寺にもみられる回遊式場面に,竜門滝,夜泊石,滝のそばの石橋から見た自然的な遠近法の持つ,宋時代山水画にそっくり似合う島組は,みな宋時代園芸との直接関係を暗示する。-386-
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