鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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と言ってもいい。だがその制限こそが実はモダニズムにおける表現の可能性と同義であると,山口は認識していた。彼のことばを借りれば,「創造の契機」なのである(注26)。そして制作者が「あらゆる材料,あらゆる道具,あらゆる物体を使用する権利をもった」ことに,彼は近代美術と過去の美術との決定的な分断点を指摘する(注27)。さて,彼のメチェヘの並々ならぬ関心は,論考「モダン・メチェ」(『アトリエ』336号,1955年2月)にはっきりうかがわれる。彼はここでフォト・モンタージュ,コラージュ,フロッタージュなど20世紀美術で開拓された技法を紹介しているが,最後に「日本的モダーン・メチェ」と題する一章をもうけ,墨流し,拓墨とともに自らのヘラ描きを紹介している。このうち墨流しは彼の見るところまだ近代絵画のメチェとして成功しておらず,拓墨は長谷川三郎が導入して成功している,とする〔図9〕。しかし肝心の自らの「ヘラ描き」についてはアルトゥングを先行例としてあげるのみで,具体的にはどこが日本的か語っていない。今日の眼でも一見して,ヘラ描きによる形象には水墨表現との類似性が認められよう。そのあたりを指摘した同時代の批評は未見だが,当時も同じだったであろう。山口自身はそうした指摘をどう感じていたのか,これも定かではないが,例えば長谷川三郎の先のような批評については,長年の友人として素直に喜んだであろう。しかしながら山口にとってそれはあくまで,メチェのもたらした効果に加えられた言説のひとつにとどまったのではないだろうか。彼はメチェを制作の決定的要素と認めていたが,メチエだけでは芸術になり得ないことも自覚していた。なぜなら芸術は彼にとって「精神活動の所産」であったから(注28)。では彼の芸術はどこを目指していたのか。次の自筆文でその答えが,少なくとも最も重要な答えのひとつが語られている。「直線を最初に発見し,最初に刻み,又は最初に描いた人が,自分の指先から離れて不滅とも思える実在となったその直線を,どんな心で眺めたであろう?現代人一般のそれとは著しく質を異にする重さを感じ,現代のそれよりは遥かに大きい比重をもつ「無言」の啓示を受けとったに違いないことを,我々は信ずる。しかるに,近代文明の贈物にかこまれて生活する人々の多くは,直線を始めとする幾何学的形象のはんらんによって,それらの中毒症にかかっている」。中毒症とは芸術に対する不感症と指摘したうえで,彼はこう結論する。「現代の抽象絵画の努力の一つは,幾何学的形象が幾何学そのものより古い時代にもっていた生き方を,よみがえらせることにもあると,云うことが出来る」(注29)。-31 -....

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