し,ここで注目したいのは,太い竹群の一番右側の幹にみられる蛇行する線状の金泥〔図4〕である。これは水墨の《臥牛図》〔図3〕にみられる,円弧を繋げていくようなむらむらの表現に似ているが,しかし,これは「たらし込み」による表現であるとは考えられない。この線状の金泥はまさに筆で描かれた「線」であって,実際「筆継ぎ」によると見られる泥の途切れや重なりかあり,また,この蛇行する線には宗達が描く草花の屈曲に通じるような意識的な筆の動きも見出される。しかし,これが[線」であることを感じさせ難くしているのは,下地の水分に濃泥をとけ込ませながら,さらに水分をその上から差して線を輩しているからである。その水分は蛇行形の線を覆うよう面状に広げられ,その面の周囲に金泥が溜まって滲み,こちらこそまさに「たらし込み」の表現となっている。ただし,この「たらし込み」は極めて微かで,線の濃泥を最せることの方に主眼があったものと思われ,これと同様な「たらし込み」はその他の竹の描写にも見られる。金泥の土波の場合は,刷毛を用いてごく淡い泥で大きく土波の形を作ったあと,次にやや濃いめの泥を,最後に濃泥をというように少しずつ濃度を上げながら,筆を重ねてむらむらを作っていき,さらに所々に水分が差されて「たらし込み」の面が重なっている。いずれにせよ,これらの「たらし込み」の面が金銀の輝きをさらに複雑にしていることはいうまでもないが,滲みの効果という点では水墨におけるほどの大胆な表現性は得られていない。墨と違って金銀泥の場合,「たらし込み」を行うことは非常に困難なものと思われる。金銀は墨よりはるかに質量が重く,さらに膠が加えられて粘度が高くなっており,あとから差した水の表面張力で多量の泥を移動させるのは不可能にちかく,わずかに沈みきらない金銀泥が周囲に溜まって少しく滲みを作るにすぎない。宗達筆とされる銀泥下絵がある《花丼鶴下絵小謡本》(畠山記念館蔵)の《竹図》の細い竹にも《畠山本》と同じような線状の蛇行形が見られるが,そのような狭い部分に水を差して濃泥の滲みを作り出せるものではなく,これも筆によって描かれた線である。その他の宗達の金銀泥絵においても水墨におけるような効果的な「たらし込み」はほとんど見られず,見られてもそれは相手が相当に淡い泥である場合か,あるいは無理矢理水分を筆で押し広げていったような場合に限られる。むしろ,金銀泥絵で中心的に用いられている技法は,濃泥,淡泥,そして水を何度も差し入れ,互いを筆で馴染ませながら微妙な濃淡を作っていくというものである。-394-
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