注(1) 国華社編『光悦書宗達金銀泥絵』(昭和五十三年朝日新聞杜)(2) 村重寧「宗達派における金銀泥絵と草花絵の展開」(『琳派絵画全集』宗達派二昭和五十三年)•山根有三「宗達金銀泥絵の成立と展開」(注1)(3) 山根有三氏は金銀泥下絵と中国元代の墨梅図や牧硲,徐渭の水墨画との関連を指摘されつつも「慶長年間の作と見倣し得る宗達の水墨画遺品はないと信ずる」とされる。山根有三「光悦と宗達J(『水墨美術大系一〇光悦・宗達・光琳』昭和五十年講談杜)(4) 辻惟雄氏は早くに山根氏の金銀泥下絵から水墨へとする考えを修正する意見を提出されている。辻氏はその理山として,第一に金銀泥の微妙な濃淡を伴った没骨描の草花は牧硲風の水墨花丼雑画につなかるもので,宗達が牧硲風の水墨画を同時期に試作していた可能性が商いこと,第二に「たらし込み]の手法は宗達以前にも見られ,また刷下絵のむらむらは肉筆の調子を版捺しの効果に置き換えたものとみなされ得るということ,第三に金銀泥下絵にみられる図様の拡大や構成法は刷下絵よりも牧硲ー沈石田一徐渭の線につながる花丼雑画冊あるいは雑画巻と相似していることを挙げられている。また,村重氏は金銀泥絵における泥面のむらの活用は《桜山吹色紙》などからも十分創案の手がかりを握み得るものとして,刷下絵から肉筆へという山根説を否定される。辻惟雄「宗達派の草花図概論」(『琳派絵画全集』宗達派一昭和五十二年日本経済新聞杜)・村重(注2)《畠山本》の特別観覧に際しましては,同館の武内範男先生より暖かいご助力を賜りました。また,ご同行くださった中部義隆,鈴木幸人,都築悦子,安田篤男の皆さんから貴重なご教示をいただきました。末筆ながら記して感謝の意を表させていただきます。396-
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