みであったといえよう。江戸琳派の伊勢物語図には,もう一つ興味深い点がある。前述のように,伝存作品には第九段の場面を扱うものが多く,「八橋」「宇津山」「富士山」を描く図が複数ずつ伝わっている。中でも,「富士山」を扱うものがまとまって見出されることに注目してみたい。『光琳百図』には,前編に掛幅装の「富士図」が二点,後編に押絵貼屏風の一図として「富士山図」が一点見出される。江戸琳派の画家たちは,前編に載る二種類の図様,すなわち右方へ進む騎馬人物と従者〔図4〕,振り返って富士の嶺を仰ぐ騎馬人物と従者〔図5〕,のどちらかを使って「富士山」の場面を描いている。抱ー落款のものは前者の図様を,門人世代のものは概して後者の図様を持つ。それぞれ屏風絵や三幅対の形式をとったり,描表具の作品に仕立てるなど種々の翻案を試みているが,興味深いのは主要モチーフである業平一行と富士山の周囲あるいは左右に,江戸琳派が得意とする四季の草花絵や,筑波山に隅田川といった景物が取り合わされていることである。まず,草花を取り合わせた場合を見てみよう〔図6• 7 • 8〕。詞書によると,業平一行が富士の麓を過ぎるのは「五月のつごもり」となっており,業平の居る「富士山」の図は厳密には定まった季節を担ったものといえる。そこに四季の草花が描き添えられることによって,伊勢物語の「富士山」は季語の束縛から解放され,四季絵としての鑑賞が可能になる。鑑賞者は,吾妻の国(江戸)へと向かう王朝人の姿を,どの季節にも床飾りとして眺めることが出来るのである。更に,〔図9〕のように,場面描写に富士山だけでなく,江戸の風物である筑波山や隅田川が取り合わされる趣向は,この画題が単なる物語絵としてでなく,江戸という土地に由緒を与え,江戸人のアイデンティティに訴える効果を持っていたことをうかがわせる。隅田川をはさんで西の富士,東の筑波といったモチーフは,景勝地としての江戸を描き出す際に頻用された。江戸琳派も伊勢物語図以外に「富士図」あるいは「武蔵野図」といった主題をたびたび手掛けており,これらはおそらく江戸の風物を描くものとして人々の愛好を呼んだものと思われる。抱ー,其ー,孤邦ら江戸琳派の画家たちが実際に隅田川に近く住いし,江戸人としての自覚を強く抱きながら周辺文化人たちと広く交流を結んで活動したことはよく知られる通りである。そこに注文を寄せる人々もまた,江戸ゆかりの文化を指向する者であったと思われる。彼らにとって第九段「富士山」の場面は,王朝の物語と江戸の地とを結びつけ,江戸を古雅の世-400-
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