鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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この論を書いた時,山口はまだヘラ描きの技法を始めていないが,技法が増えた後もここに述べられたような確固とした芸術観が変化したとは思えない。すなわち,芸術の役割は,少なくとも抽象の役割とは,人とメチェが初めて出会った時の新鮮な驚きを通路として,「無言の啓示」と比喩されるような深く強烈な精神的体験へと人をいたらしめることである。初めての出会いにともなう驚きとは,ごく素朴な体験である。その地点では,直線が抽象絵画の要素であることも,ヘラ描きの形象が水墨表現に似ていることも,無化されざるを得ない。モダニズムも“日本的”という観念も遠さ‘‘かり,いわば裸の状態でメチェが精神に出会う。少なくとも,出会う可能性が開かれるのである。メチェと人との新鮮な出会いは,しかし新奇なメチェを次々発明する方法では決して実現できないだろう。現実体験としての最初の出会いは一度きりしかあり得ない。そのあり得ないことをあらしめるのが芸術としての力にほかならなず,その力とは絵画の場合は空間構成にかかってくるのだから。それゆえ山口はメチェを烏口とヘラ描きにほぼ完全に限定して制作を続けた。だった。だがそのわずか2年後,彼は探求の途上で世を去らねばならなかったのである。結びに代えて岡本太郎はフィールド・ワークと思考を通して,“日本的なもの”の自明性の根拠を掘り返し続けた。山口正城はメチェと人間との出会いを根源的な芸術体験として探求することにより,モダニズムも“日本的なもの”の観念も無化される地点に抽象絵画の芸術としての可能性を確信した。“自明性という実感”を解体し得る可能性を開いたことにおいて,両者が当時の前衛美術のなかでも傑出した位置にあると筆者は考える。なぜ二人にはそれが可能だったか。それは自由で明晰な知性と,探求の一貫性によるであろう。岡本太郎は再評価が高まっているとはいえ,今なおファナティックな人物であるかのように一般にはとられがちである。しかし彼の論述の断定口調は明快さを尊ぶがゆえであり,そこには常に自らへの批判を積極的に喚起することで公平性を期し,さらに読む者を論議に巻き込もうとする戦略がうかがわれる。一方,山口正城1957年から,彼は画面サイズを拡大しつつ,構成を複雑化する方向へ向かう〔図10,11〕。それが彼にとって,自らの絵画空間をいっそう強化する可能性をかいま見た方向-32-

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