に改めて言及するが,稿者の研究によれば,クレー作品を「シュルレアリスム的」とする批評パラダイムの成立には,1920年代ドイツ美術界のフランス美術に対する複雑な対抗意識が大きく与っており,シュルレアリストたちのクレーに対する熱狂が,パリに目を向けていたドイツ人の画商,評論家たちによってドイツ美術に有利になるよう「改訂」されたかたちでドイツ美術界に逆輸入されていたふしがある。クレーを「シュルレアリスムの先駆者」の一人としたアンドレ・ブルトンをはじめ(注2),ポール・エリュアール,トリスタン・ツァラ,画家のマックス・エルンストらパリのシュルレアリストたちがクレーの芸術を極めて高く評価しているにも関わらず(注3),この批評のパラダイムが,今日に至るまで恣意的評言の狙撒を許し,或いは,クレー作品のシュルレアリテートが必要以上に否定的に捉えられたりするには,成立当時に生じた上述の「歪み」が解消され得ないでいるからである,と考えられる。この状況は,クレー自身,シュルレアリスムとの関係を積極的に承認したことがない,という事実によって,更に複雑なものとなっている。しかし,クレーの作品には「シュルレアリスム的」と評するほかない,「幻想的」,「非合理的」,「性的」,「有機形態的」な側面が確かに存在する。これをシュルレアリスムとの直接的関係から論じることの是非は暫く措くとして,クレー作品が「シュルレアリスム的」であるという批評パラダイムが今Hまでその命脈を保っている,という事実には注目すべきであろう。言うまでもなく,クレー作品における「構築的」側面と「シュルレアリスム的」側面とは,その研究において別個に論じられるべきものではない。それらは本来,彼の作品の中で,分かち難く結びつき,私見によれば,まさにその結びつきにこそ,クレー作品の特質が観察されるのである。従ってクレー研究において「構築的」側面の研究だけが先行し,「シュルレアリスム的」側面において,依然,恣意的な言説や,徒に否定的な見解が容認されている現状はクレー研究において,決して健全な状態とは言えないであろう。稿者は以上のような認識に立ち,今日まで調査研究を進めてきたものであるが,その途上,先ず,クレーが何故,今世紀20年代以降,パリのシュルレアリストたちに受け容れられたのか,クレー作品のいかなる性格がパリのシュルレアリストたちをして「シュルレアリスム的」と評させたのか,要するにクレー作品イクォール「シュルレアリスム的」,なる批評パラダイム成立の詳細と,パリにおけるクレー受容のメカニズムの検討が,急務とされるに至った。そのような調査を待って,初めてクレー作品を-409-
元のページ ../index.html#418