1968年,土肥美夫は,まとまった議論としては,欧米,本邦を通じて初めて「クレ「シュルレアリスム的」とする批評の是非を巡る議論が可能となり,クレー作品の,より安定した批評パラダイムを構築し得る,と考えたわけである。更に,同研究は,クレーを「シュルレアリスム的」と見なしたシュルレアリストたちの抱懐した「シュルレアリテ」の意味を浮かび上がらせることにも繋がると考えている。研究状況ー1-ここでクレー批評史を通じて,クレーとシュルレアリスムとの関係を扱った研究を概観しておこう。ーとシュルレアリスム」という問題圏の意義を了解し,短文かつ,研究の可能性を示唆するにとどまるもではあったが,貴重な提言を残している(注4)。彼の議論は海外の諸研究にその多くを拠っているのだが,彼の参看した資料は,クレーとシュルレアリスムの関係をそのテーマとしたものではなく,議論の途上に,いわば,書き手の感想として付随的にその関係を示唆したものばかりであったもののようである。土肥の文章が書かれた当時,海外では漸く批判的クレー研究の基礎固めの始まる時期であり,土肥はそれ以後に発表されることになる諸研究を参照し得ず,ヴィル・グローマン,マックス・フッグラーらの残した,クレーと同時代に生きた評論家乃至研究者としての強みはあるものの,多分に主観的なクレー論と,当時,手にし得た数少ない同時代資料を頼りに,彼の「パウル・クレーとシュールレアリスム」を書き上げている。このような状況を考えるなら彼の提言は極めて慧眼に富んだものと言わざるを得ない。クレーとシュルレアリスムを巡る議論が,漸く批判的視点に立って為されるのは,土肥の短文からおよそ10年を経過した1979年,ラインホルト・ホールの研究によって,と考えて良いだろう(注5)。ユルゲン・グレーゼマーとともに70年代を代表するクレー研究者の一人で,当時執筆ままならない状態にあったクリスティアン・ゲールハールの代行として彼はこの原稿を執筆したのだが,パウル・クレー=シュティフトゥンクに収められている膨大な資料とゲールハールの研究ノートに基づいて,当時としてはかなり正確な状況分析が為されていたと考えられる。ホールは土肥同様「クレーとシュルレアリスム」との関係を究明することの重要性を強調する。そして,ゲールハールの残したノートに基づき,例えば,1917年5月17日,チューリヒで開かれたダダ画廊の展覧会開催に関連して当時ダダイストとして活躍していたトリスタン・ツァラ-410-
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