注(3) 村山康男「引き裂かれた日本・私」「1953年展』図録,編集:1953年ライトアップ(4) 加藤周ー「近代日本の文明史的位置」『中央公論』1957年3月。ただし引用は同著の論述は理屈っぽさを装い,そこに軽い皮肉まじりのユーモアがただよう。とはいえ彼が教師として人間的に多くの敬愛を集めたことは伝わっており,理屈っぽさも皮肉も衝学趣味や冷笑ではなく,ファナティシズムに陥るのを回避する戦術であった。では彼らの方法論によっては解体も無化もされ得なかった“日本的なもの”はなかったのだろうか。筆者としては山下菊二の絵をあげなくてはならない。有名なくあけぼの村物語〉が制作されたのは1953年。しばしば農村の土俗性や因習性と結び付けられて語られる作品である。ただ私見ではむしろ,1960年代末から70年代前半に制作された絵画のいくつかに,“日本的なもの”と言う他ないあるものがリアリティをもって表現されているのを認める〔図12,13〕。天皇を頂点として“日本人”全てをピラミッド状に配列する制度が,すなわち巨大な“家”意識が,人々の心にため込んだよどみや澱,のようなものである。それは戦争中,中国戦線で非人間的行為に加わってしまった兵士としての山下の記憶が,軍隊制度を支えた根拠として繰り返し呼び起こさずにはすまなかったものに他ならない。山下にとっては描くことは悪魔ばらいであり,しかもはらいきれないことを知りながら繰り返さなくてはならない絶望的な行為だったのではないだろうか。岡本太郎と山口正城の探求の菫要性を強調しつつも,その限界の重い証言として山下菊二の絵をあげ,本論の締めくくりとしたい。(1) ここでの前衛は美術表現上の呼称として用いており,共産主義を政治的信条とすることにのみ根拠のある場合の「前衛」作家は対象としない。(Z) 特に明治時代の美術について近年こうした研究が進んでいる。なお,美術研究ではないが最近注目した仕事として,イ・ヨンスク『「国語」という思想ー近代日本の言語認識』(岩波書店,1996年)をあげたい。展実行委員会,発行:目黒区美術館・多摩美術大学,1996年,39頁。者『日本人とは何か』講談杜学術文庫,1976年,79頁。(5) このあたりを明確に語った論として,以下をあげる。植村鷹千代「フォーヴィスムと日本絵画_マチス特集に寄せて一」『アトリエ』247号,1947年4月。同「前衛絵画の課題J同誌250号,1947年8月。同「いはゆる前衛絵画について一その意おり-33 -
元のページ ../index.html#42