鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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1919年11月,ェルンストが中心になってケルンの芸術協会で開催した「ブレタンD」論家たち,特にヴェストハイム,ヒルデブラントらが重要な役割を果たしたことを解明した(注7)。その後稿者はクレーの具象的形象の研究を通してシュルレアリスム絵画の具象的形象との比較可能性を考察,特にマックス・エルンストの作品との具体的な比較検討の可能性を準備している(注8)。クレーとエルンストさて,以上がクレーとシュルレアリスムを巡る先行研究,稿者による継続的研究のあらましである。続いて稿者が鹿島美術財団の助成を得て1996年秋,ベルンのパウル・クレー=シュティフトゥンクを中心に行った調査の概要と,そこで得られたクレーとエルンストを巡る一知見を書き留めておく(注9)。パウル・クレー=シュティフトゥンクにおいて稿者は,パウル・ヴェストハイム,ヴィルヘルム・ウーデ,クリスティアン・ゼルヴォスのクレー宛書簡の調査,そして就中懸案だったクレー宛エルンストの書簡三通を詳細に検討する機会を得た。加えて展のカタログをも参看することが出来た。これらの検討を通じて1919年以降,クレーがパリのシュルレアリストに紹介されて行く中で,ェルンストの果たした役割が極めて重要なものであることがかなり明確なものとなった。クレーとエルンストの出会いについては,ヴェルナー・シュピースの詳細な研究を待つまでもなく既に広く知られている。1919年9月,ェルンストは,バールゲルトとともに行ったアルプス登山の帰路,ミュンヒェンに立ち寄り,ゴルツ画廊に展示されていたクレーの新作に興味を持ちクレーを訪問した(注10)。このミュンヒェン滞在は,ゴルツ画廊書籍部で,たまたま手に取ったイタリアの美術雑誌「ヴァローリ・プラスティチ」のデ・キリコ特集号によって,ェルンストがデ・キリコを発見したメルクマールとして知られているが,一方,ェルンストの本来の目的であったクレーとの出会いについては今日までさほど重視されてこなかった。エルンストとクレーの直接的な関係がこの最初の出会い以後ついに継続されなかったことがその要因であろうが,稿者が調査し得た1923年のエルンストのクレー宛書簡からは二人の関係が,少なくともシュルレアリスム運動がその胎動期にあった1923年12月まで,ェルンストサイドでは維持されていたことが了解される。そればかりではなく,エルンストはこの時期,彼の交友関係の中で,クレーについて,後にシュルレアリストと呼ばれる芸術家たちと-412-

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