鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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1930年前後にはクレー作品のコレクションを更に増やしてもいた。また,1925年11月14日から25日の会期でパリのピエール画廊で開催された「第一回シュルレアリスム絵1923年12月20日付け書簡では,彼の友人たちがクレーの作品を深く愛し,何点かを買積極的に語り合っていたことが推測されるのである。シュピースに拠れば,エルンストはクレー訪問の機会を借りてクレーにその作品を,開催予定の展覧会に出品することを要請,それに応じてクレーは5点の水彩と29点の素描を出品することを了承している。シュピースの調査はグレーゼマーの研究に基づいたものでかなり正確なものであると考えられるが,残念ながらその後のクレーとの関係についてはまとまった記述を発表していない。ところで,ブルトンの『シュルレアリスム宣言』がパリのサジテール社から出版されるのは1924年10月15日であり,ブルトンはクレーをシュルレアリスムの先駆と認めた脚注の中でエルンストの名前も挙げている。エルンストとブルトンは遅くとも1920年には互いの存在を認めていたと考えられる。というのも,ケルンでダダ運動を展開していたエルンストが1920年2月,アルプ,バールゲルトとともに雑誌『シャマーデ(降伏表明信号)』を刊行したとき,その寄稿者としてプルトンの名がエリュアールとともに挙げられているからである。また,同年秋,ェルンストはエリュアールの訪問を受け,相識るようになり,更に翌年1921年夏,エルンストはハンス・アルプ,ソフィー・トイバー,ツァラ,ブルトンらとともにチロルで過ごしている。一方,稿者の調査によると,ェリュアールは少なくとも1924年にはクレーの作品を手に入れており,画展」ではクレーの作品が展示されたが,その出品作の選考にはブルトンが深く関わっていた。エルンストがクレーに宛てた三通の書簡は本稿末尾に資料として翻訳紹介するが,いたいと考えている旨伝えている。この事実を上に見てきたパリにおけるシュルレアリスム胎動期の経緯と照らし合わせるとき,エルンストが1919年以降,クレー紹介に柩めて重要な役割を果たしたことはほぼ確実と考えられる。今日まで,クレーとエルンストの関係は1919年夏の両者の出会い以後完全にとぎれてしまったかに考えられていたが,今回の調査によって,両者の関係に新たな光が当てられることとなった,と考えられる。-413-

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