鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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Mtinchen 1921.のこと。1929年と1930年にグローマンとクレヴェルによるフランKlees gesch註ftlicheVerbindung zur Galerie Alfred Flechtheim, in: Ausst. Kat., Alfred Flechtheim -Sammler, Kunsth且ndler,Verleger, Kunst-museum Dtisseldorf 1987. S. 64-91ウーデのパリでの活躍,交友関係から推すに彼(13) エルンストの手稿ではこの書簡は1919年2月5Hの日付を持っている。しかし,(14) 1919年11月,「ケルン芸術協会」の設立者カール・ニーレンドルフによって企画さ66), "Zwei gleich eins" (1915, 21)の二点の名前が挙げられている。書簡冒頭がパリに於けるクレー受容に果たした役割はかなり重要なものであったはずである。ウーデとカーンワイラーらとの交友関係からもこの問題を検討すべきだろう。内容から考えて,これは次に挙げる書簡の直後に書かれたもののように思われる。詳細は現在調査中であるが,エルンストの誤記である可能性が高い。れた展覧会に出品を予定して,エルンストはゴルツ画廊を通じてクレーから5点の水彩と29点の素描を借り出した。しかし,エルンスト,バールゲルトの作品がニーレンドルフの予想を遥かに逸脱した挑発的なものであったため,美術館長ヴァルター・クルークの調停にも関わらず,彼らの展示は拒否された。そこでエルンストらは「ケルン芸術協会」と訣別,同じ会場で独立した展覧会を企画した。『ブレタンD』と名付けられた同展カタログにはクレーの素描“Brunst"(1915, のクレーに対する謝辞はエルンストが「ケルン芸術協会」に参加を拒否されたためにクレーから託された全作品を展示できなかったことに対するものだろう。(15) Wilhelm Hausenstein, Kairuan oder Die Geschichte vom Maler Klee, ス語のモノグラフが立て続けに出版されるまでこの本はクレーに関する数少ない基本的文献の一つであった。(16) 当時,エルンストはエリュアールの家に同居していた。追記今回も快く稿者の求めに応じて下さったシュテファン・フライさん,パウル・クレー=シュティフトゥンクの奥田修さんをはじめとした研究貝のみなさん,そして就中今回の調査を可能として下さった鹿島美術財団と委員の方々にお礼申し上げます。-418-

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