鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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(18) 岡本太郎『神秘日本』中央公論社,1964年,213頁。(19) 岡本「縄文土器論」4頁。(20) 岡本『神秘日本』212頁。(21) 徳大寺公秀が保留を加えながらも,梅原龍三郎→海老原喜之助→岡本太郎に「日本的な連続がある」と指摘。座談会「世界の現代美術における民族性と風土の問題ー第4回日本国際美術展を観て」『美術手帖』128号,1957年7月,63頁。(22) 長谷川三郎「大津絵と民衆絵画」1954年。引用は長谷川三郎著,乾由明編『「論」長谷川三郎』三彩杜,1977年,182頁。(23) 山口正城は1903年(明治36),北海道旭川市に生まれ,同市の旧制中学校を卒業後に上京,東京高等工芸学校図案科に学んだ。1926年(大正15)に同校を卒業,直ちに大阪市立工芸学校(現・大阪市立工芸高等学校)の図案科教師となり,いちはやくバウハウスの理論を取り入れたデザイン教育を行った。この時代の彼の門下から,デザイナーの早川良雄や山城隆ーが育っている。1939年(昭和14)に京都市立第二工業学校に移り,戦争末期から戦後間もなくまでは滋賀県で技術系の仕事に携わるが,1948年に東京に移り,翌年からは千葉大学工学部工業意匠学科(旧母校)で教鞭をとった。以後,デザイン学会設立への参加,いくつかのデザイン・コンペの審査員などを務め,1959年12月に56歳で急逝した。デザイン教育のかたわら,彼は1937年に第1回自由美術展にフォトグラムの技法による抽象作品で入選し,1939年からは直線による幾何学的抽象の作品を同展に発表し続けている。戦後は自由美術展の他に「抽象と幻想展」(1953,国立近代美術館,東京),「日米抽象美術展」(1954,ニューヨーク),「H本国際美術展」,「現代日本美術展」などにも発表した。最初のまとまった展覧会は没後の1980年,福岡市美術館で行われ,その4年後に故郷にある北海道立旭川美術館でも回顧展を行っている。その後,旭川美術館では遺族からの多数の作品寄贈も受けて,現在作品63点のほか,デッサンや切り紙細工など多数の資料を保管しており,その制作の全体像を詳しく追うことが可能となっている(以上の年代についての記述は,中塚宏之氏編集の年譜に主として負った)。(24) 瀧口修造「日本的非具象絵画の一断面」『みづゑ』612号,1956年7月,4頁。し引用は橿尾正次「山口正城の世界』版・椰,1979年,4頁。(25) 長谷川三郎「ニューヨークの日米抽象美術展」『朝日新聞』1954年4月27日。ただ-35 -

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