鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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クハ申スゾ」卜。聖人ノ云ク,「我レ,心二叶テ輯ク被仕ル、者ノ無ケレバ,毘沙門天二,『然ラム者,一人給へ』卜申シ>二依テ,実ノ人ヲバ不給デ,脊属ヲ給ヘル也。煩ハシキ者ナルニ依テ,『久ク有テハ由無シ』卜思テ,返シツル也。但シ,房ノ内二,人恐レヲ成ス事ヲバ不令至ジ。此ノ故ヲ不知ズシテ戦ヒ合テ被打殺ル、,極テ愚力也」其ノ後,聖人背振ノ山ヲ去テ,幡磨ノ国,飾磨ノ郡ノ書写ノ山二移テ,三間ノ庵室ヲ造テ住ス。(下略)●『扶桑略記』寛弘4年(1007)3月13日条書寓山性空上人入滅。(中略)敷年之後,去霧嶋,更移住筑前國背振山0:fft九季,得誼誦法華経。山中無人,風月清爽之時,十餘歳児童等,在同座,共誦此経。又有老僧。形腔非凡。以一枚之書授上人。上人以左手握之。老僧耳語曰。福報遍照,法華光蔵,應正等覺。上人心異之。背振山で性空に随仕した童は「乙丸」と伝えられるが(『谷阿闇梨傭』『元亨繹書』),乙丸とは,背布利神である弁財天の春属童子のうち第十五童子化身である「乙護法」をさし,背振山の守護神とされる(『背振山霊験』『筑前國続風土記』)。この童は皇慶にも仕えたという(『谷阿閤梨傭』)。(3) 皇慶・延殷台密の一大法流である谷流の祖・皇慶は,性空の甥と伝えられる(『元亨繹書』)。鎮西に到り,延殷とともに東寺の景雲より受法し,その後両人は背振山で一夏修練したという(『谷阿闇梨傭』『明匠略傭』)。皇慶・延殷は,寂照とともに渡海の志をもっていたと伝えられることから,彼らの背振入山の時期は,寂照が入宋した長保5年(1003)の頃と考えられる。●『谷阿闇梨博』到鎮西,就東寺明師景雲阿闇梨,受彼宗灌頂大道,弘法大師将来之法,悉以博授。又授以大師之賓瓶。大師掌握之痕猶存。以表潟瓶之心也。闇梨有心渡海。以員言血脈函安松餞矢曰。事若可果,此函莫失。典寂昭上人共上旅舶,有敷千鳩,集干船上,逐之不起。1乃留諸人,猶不分散。試下閤梨,鳩便飛去。寛知八幡大菩薩惜國賓也。於肥後國背振山,一夏修練。延殷法橋者,顕密優長之偉器也。初蔑闇梨,名1旦真言師。後感其徳,委質為弟子,相共行法。及闇梨誦驚疲地神偶,以手按地,地大震動。謂延殷曰。至於成佛,’l翼勿語人。(中略)薄暮有一童子,来曰。将為牛馬走。闇梨見之,身腔-449-

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