鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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肥壮,其首如覧,視聴意氣。殆鬼神中之人也。問曰。自何慮来哉。童子曰。多年仕播磨國書窺山性空上人。彼山蒼頭,楡上人中食之上分,不堪葱満,以拳殿之,其人委頓。上人因蕊長以謝遣。闇梨典飲食。童子曰。被加印呪,何不受之。妥知為震物,為遠所使。早達報命,四五日路。唯在渉刻,憑虚洗濯,不用竿悼,後養竃下,同伴暴譴之餘,次第打輔車,巡至童子,固辟曰。恐及大故,同伴強之敷回。童子織下拳,吐血殆死。閣梨因是放去。童子曰。背振山地震者,堅牢地神之出也。防見此事,慕懐所来也。不奉仕佛法者,毎事無便,悲哉。●『元亨繹書』繹延殷長保二年寂照入唐。殷共之赴西海。朝廷有議留殷,惜偉器也。後於景雲閤梨慮偕皇慶受雨部密法。(4)栄西栄西が宋から茶種を持ち帰り,それを初めて植えた地が背振山であることはよく知られている(『肥前州古跡縁起』『筑前國続風土記』)。生涯2度の入宋のうち,いずれの帰国後(仁安3年・1168及び建久2年・1191)であるかは伝を欠く。●『肥前州古跡縁起』背振山其後葉上僧正,千光国師入唐在り。蹄朝の時始て我朝に茶の種を渡し,此背振山に来て彼茶の賓を取出し石上に投げ給へば忽ち生え出て國土の茶となりける。此の種を分け梅の尾槙の尾に榮え今又宇治の里にはびこれり。此葉上僧正は都五山の東山建仁寺の開山顕蜜輝の祖師也。千光國師茶の賓を投げ給へる石の許に寺を立石上坊とて今も在り。其の茶の木高さー丈にして枝四方に盛へ,廣さ十餘景にして木立餘勢ありて,如何にも美しき木也。日本の茶是より始まれり。しかし,第1次入宋からの帰国後に背振山にいたことは,治承5年(1181)の奥書のある『秘宗隠語集』自序からうかがえる。ここに名のみえる琳海については,『東寺天台大血脈圃』に栄西から受法した弟子のひとりとして名がみえるほか,佐賀県小城郡小城町の牛尾山を起点とする肥前国峰の回峰修行の創始者としてもその名が遺されている(牛尾神社蔵『若王子大権現之縁起』,八天神社蔵『肥陽牛尾山峰中略縁起並地銘』)。●『秘宗隠語集』自序先年求法以入宋国,及秋帰朝。次肥州適遇一沙門背振山琳海,問答四曼義編録成ー集。名曰秘宗隠語矢。-450-

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