約3年間九州に留まり,再び誓願寺に寄宿した形跡が認められるほか,同国志摩郡に同5年栄西の撰に係る『胎口決』は皇慶の口決を伝えたものでもある(注1)。3 背振東西満山ところで,栄西と背振山地周辺との関係は案外深い。とくに,安元元年(1175)以前から第2次入宋直前の文治3年(1187)まで筑前国今津の誓願寺に滞留し,便船を待ちつつ『誓願寺創建縁起』や『誓願寺孟蘭盆一品縁起』をはじめとする多くの撰述や経論書写をおこなっている。さらに,建久2年(1191)第2次入宋からの帰国後も唐泊山東林寺,肥前国高来郡に宝月山智恵光寺などを開いたとも伝えられている(『太宰管内志』)。これは『興禅護国論』が暗示しているように栄西の皇慶・延殷に対する深い関心が影響したものと考えられよう。●『興禅護国論』第九大国説話門然而東土南岳天台,証五品六根,皇慶延殷,驚天人地神なかでも皇慶に対する関心はことさら強かったようである。承安3年(1173)以前に皇慶の撰に係る『金剛界大灌頂随要私記』を写して所持していた形跡があるほか,このように,都郡に著聞した古代高僧の背振入山伝承は意外に多い。和銅年間に背振山を中興したと伝えられる僧湛誉と『三代実録』及び『扶桑略記』にみえる唐僧湛誉は,安易に両者を同一人物と見なし得ないが,背布利神への叙位が貞観12年(870)である(『三代実録』)ことを併せ考えれば,背振山の仏教文化開閻の時期は9世紀後半に求められるのではないだろうか。また,性空と皇慶,そして皇慶・延殷と栄西などの関係を考えるとき,背振山の仏教文化が台密教学の影響下に形成されたことも理解されよう。なかでも,栄西の生涯に背振山は重要な意味をもっていたと思われる。栄西の生涯は第2次入宋を期に大きく変化する。前期は密教僧,後期は入宋律師としての時代である。こうした栄西の変化に背振山がある種の役割を果たしたとすれば,それは彦山や宝満山,そして六郷満山などが九州の古代及び中世文化形成に果たした役割とは明らかに別種のものだったといえよう。背振山から出土した経筒の銘文中に背振東西満山という文言がある。これは,古代高僧の背振入山伝承の多さとともに,古代の背振山及び背振山地における仏教文化の-451-
元のページ ../index.html#460