鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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佐賀県立博物館や福岡市博物館ほかが所蔵する銅製経筒は,筒身銘文の内~がほぼ充実を象徴する文言でもある。これまで伝承をとおして古代背振山の山容を垣間みてきたが,より確かな史料によって,少しでも多くの透き間を埋めることが求められよう。ここでは経塚遺物の銘文の内容や経筒の形態,その他文献史料などを手掛かりに,改めて古代背振山の実像への接近を試みてみたい。(1) 良逼大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館に所蔵される銅製経筒は,筒身の銘文から「勧進僧良逼」によって永久5年(1117)から保安2年(1121)にかけて埋納されたことが知られる。●〔大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館蔵筒身刻銘〕(注2)大日本国」管肥前国中」背振山」奉始去永久五年四月十□日保安二年十月十口五箇年之内供養」勧進僧良逼」如法妙法十一良逼という僧は,永長2年(1097)の観世音寺所司大衆等の訴状に大衆伝燈大法師の一人として名がみえる(注3)。同名異人の可能性もあろうが,仮に同一人物であるとすれば観世音寺との関係が注目されてくる。この経筒については,その形態が佐賀県藤津郡塩田町塩吹出土の銅製経筒と酷似することは注目に値する(注4)。この塩田町には牛尾山修験の拠点のひとつが存在していたが(『肥陽牛尾山峰中略縁起並地銘』),ここから背振山と肥前牛尾山との関係が想定される。牛尾山は肥前国峰の回峰修行の拠点であり,その創始者琳海は,永暦元年(1160)から応保2年(1162)にかけて,筑前・肥前両国の病患毒虫退散祈疇のため背振山地を中心とする肥前東部の霊峰を回峰したと伝えられる(背振神社蔵『背振山縁起』,牛尾神社蔵『若王子大権現之縁起』)(注5)(2) 増忍一致することから,背振山中の同一経塚(推定では佐賀県神埼郡東背振村坂本霊仙寺跡)から出土したものと考えられる。銘文から「大勧進僧増忍」によって康治元年(1142)埋納されたことが知られる。●〔福岡市博物館蔵筒身刻銘〕(注6)鎮西肥前國背振山如法書窺止観経一部」大悲三所櫂現大行事乙天尊東西滴山護法聖衆」右志者為大勧進僧増忍師長父母及至六道四先」三悪四趣郡類併成佛1尋道也」康治元年歳次壬戌十一月十六日供養畢」大勧進僧増忍-452-

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