鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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11)。●〔個人蔵筒身刻銘〕(注7)鎮西肥前國背振山如法書寓法花経十二部内」守護者」大悲三所櫂現龍口士口善帝王八所王子」大悲大行事乙護法口貫□□東口櫂現」東西涌山護法伽監神大率□時口冥口慮」右意趣非他[六日口供養畢」大勧進僧増忍」増忍については,山城国光明山の僧静誉が付法した弟子中に増忍の名をみることができるが(注8)'同一人物であるかは不詳である。しかし,少なくともこれらの経筒の銘文中の「大悲三所櫂現」「八所王子」の文言から熊野信仰の影響がうかがわれ,増忍が熊野修験と関わりの深い僧だった可能性は高い。熊野修験との関わりを考慮するとすれば,『初例抄』那智山僧綱例の仁平3年(1153)2月の条にみえる那智山常住一和尚阿闇梨静誉を法橋に叙するという記述が注目されてこよう(注9)。いずれにせよ,康治元年以前の時点で背振山に熊野信仰が伝播している事実は,管見では豊前彦山や豊後六郷山よりも古く,注目に値する。また,これらの経筒の形態はいわゆる四王寺型と称される特徴を示しており(注10),大宰府地域で製造されたものと考えられる。(3) 積上式経筒背振山一帯では積上式と称される銅製経筒が比較的多数出土している。積上式経筒とは筒身部が2個から4個の円筒からなり,別製の蓋及び台とともに組み上げて構成されるもので,近年では,背振山頂で6本分の積上式経筒が発見され話題となった(注この形態の経筒は,現在40数例ほどの出土が知られており,佐賀県唐津市から福岡市西油山にかけての背振山地一帯と四王寺山を中心とする大宰府一帯か分布の中心とみることができる。分布の密度からすればこれらの製造地は大宰府地域であったと考えるのが適当であろう。これを裏付るかのように,観世音寺境内東南の発掘調査によって12世紀の層から鋳型や鋳造道具類が出土し,観世音寺内に設けられた鋳物工房の存在が確認されているほか,同寺域外南側でも同様な遺物が出土している。後者の発掘では積上式経筒の蓋に取り付けられる相輪形の摘みも発見されたという(注12)。背振山頂出土のものは,紀年銘を伴う他出土のものの形態と比較すると1130年代の特徴を示しており,背振山頂の経塚の造営時期と造営に関わった集団の所属等がうかがい知れよう。]偏為上求井下化衆生也」康治元年歳次壬戌十一月十-453-

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