鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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注4 おわりに背振東西満山の文言に象徴される背振山及び背振山地における仏教文化の充実を,経塚遺物の銘文の内容や経筒の形態から改めて考えてみた。背振山上の経塚の造営に関わった人物からは,大宰府の観世音寺,そして熊野信仰との密接な関わりが想起された。また,背振山一帯で積上式経筒が比較的多数出土することは,この山の仏教文化が観世音寺周辺から発信される文化の影響下に包摂されていたことを意味している。積上式経筒に限らず,11世紀末から12世紀前半にかけて最も流布される四王寺型経筒の分布の中心も大宰府周辺にある。いずれも,後期になるほどその分布が外へ拡大する傾向にあるほか,拡大の方向が東は彦山まで,西は背振山地周辺に限られることが併せて注目される。これら同一形態の経筒の銘文にみえる僧名は,観世音寺関係の文書にみえる僧名と一致する例が多いことも注目されよう(注13)。とくにそれは肥前国内出土のものとの一致が多く,ここから12世紀頃の観世音寺文化圏の範囲拡大のようすと肥前国内の行場を巡る修行僧の活動が想起されてくる。それはまた,先にみた,栄西の第2次入宋帰国後の九州巡錫の範囲と符合していることも極めて興味深い。今回の研究は,背振山主峰における古代の宗教活動を明らかにすることに主眼を置いたため,この報告では文献史料の検討が中心となった。今後の課題としては,栄西の生涯上,背振山はいかなる意味をもっていたのか,九州の中世文化の形成と継承に背振山はいかなる役割を果たしたのか,この2点が残る。背振山地周辺には,中世において天台宗から臨済宗へと転派した寺院が比較的多い。解明の手掛かりとして,これらの寺院の歴史等を抑えてゆくことも必要となろう。また,この背振山地一帯は,椙岡県志摩郡二丈町の浮嶽神社の木彫像3躯に代表されるように,平安彫像の遺影にも恵まれていることも忘れてはならない。これらもまた,背振東西満山の仏教文化の充実を象徴するものであり,調査地域を限定しつつ,順次考察を進めてゆきたい。(1) 多賀宗隼人物叢書『栄西』(昭和40年6月吉川弘文館)(2) 大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館編『弥勒[童憬』展図録(平成4年10月)-454-

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