鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
483/590

れて賞賛された。とくに徐氏の詩句にある“陶成先得貢吾君”とは,秘色磁器が完成したら,まず皇帝に奉献するということを示している。これによって遅くとも中晩唐の時,越州の陶磁器が貢磁として皇室に進呈されたことは明らかである。唐代には越州だけでなく,当時の河南府・耶州からも,陶磁器が土貢として中央政府に貢納されていた(注4)。このことによって,陶磁器を地方から中央政府に献上する“貢磁”がすでに制度化されていたと考えられる。出土した(注5)。銘文のなかには,“9賓干当保貢窯之北山”と記されており,そのことから,唐末における“貢窯”の存在が考えられる。また,その場所が“明州慈渓上林郷”にあるとも明記されている。上林湖は唐代に慈渓に属し明州の一部であるが,五代以降に越州の余眺県の所属となった。そのことによってであろうか,北宋に編集された『新唐書』には,磁器を土貢として朝廷に献上した地方としては越州のみが記載されており,明州のことは記載されていない。上述の資料によって,唐代の越州貢磁の産地は余桃県の上林湖にあると推測できる。1987年に映西省扶風県の法門寺塔地宮から出土した青磁が,それとともに発見された咸通十五年(847)の年紀をもつ石碑の中で明確に「荒秘色」と記されている(注6)。それは,唐代の典型的な越州の秘色青磁の実例であると認められる。中世的な貴族政治の没落と藩鎮の独立のために,唐王朝が解体すると,五代十国が生まれた。五代の歴史を記述する『十國春秋』,『呉越備史』及び『冊府元亀』には,呉越国(907■978)が“秘色売器”,“釦金完器”,“金稜秘色荒器”などを,そのまわりにある国々に進貢したとの記載が数回見られる(注7)。この際,越州地域は江南地方にある小独立国の呉越国の領内となり,この越州で生産された,いわゆる“秘色青磁”の製品が,国王への貢磁であって,無論それは国王自身を中心とする狭義の宮廷用,もしくは諸国王への答礼品に充てられたと考えられる。これによって唐から北宋の初めにかけて,いかに越州窯の秘色青磁が珍重されていたかを想像することができよう。北宋末・趙令時(1061■1134年)が著した『侯鯖録』の巻六には「今之秘色磁器。世言銭氏有国。越州焼進,為供奉之物,不得臣庶用之,故云秘色。比見陸亀蒙集越器詩……。乃知唐已有秘色芙。」という記載があった(注8)。これは北宋の人が認識していた秘色磁器が銭氏呉越国の越州からの供奉物として焼造・進呈されたもので,普1979年に浙江省慈渓県市の上林湖で,唐光啓三年(887)の年款をもつ青磁の墓誌が-474-

元のページ  ../index.html#483

このブックを見る