その最上級の製品は“秘色完”の名で知られているが,それは宮廷用•朝貢用の器と通の官吏や庶民らが使用できないものだったので,秘色と呼ばれたということを示している。また,唐詩によって,秘色青磁がその時代からあったと知られている。以上のように,五代の呉越国の支配地域にあった越州窯は,呉越王銭氏の庇護をうけて,して生産されていたと認識されていたのである。太平興国三年(978年)に呉越国王銭弘{叔は,自ら宋の太宗(在位976■997)に領土を献じて臣下の礼をとり,中国が再び統一されるようになる。上述のような貢磁の傾向をうけて,宋代にはついで朝廷による本格的な磁器採用が実現したようにみえる。地方から陶磁器を朝廷へ献上した記載は,『宋会要稿』食貨五二,売器庫の条に見られる(注9)。それによって,北宋の都である注梁城内の建隆坊に設けられた荒器庫には,内廷の用に供するため越州・定州以下の諸州から貢奉された窯器が収蔵されていたことが分かる。そのうち,明州と越州はともに現在の越州窯系に属されている。また,饒州は景徳鎮窯のことで,定州は定窯のことを指す。上記の諸州はいずれも管内に窯場を持ち,それらは全国の窯場の中でも,特に優れていた故に土貢として額定の陶磁器を貢納したのであるが,そのような窯場の中でも特に優秀な若干の磁器のみが選別されたわけである。天子御用の磁器は,こうして厳選に厳選を重ねた精品でなければならなかったのである。他方,それほどまでではなくとも天子主催の宮中宴席の備品,あるいは臣僚への下賜品などといった広義での使用ともなれば,その数量が英大であるから,売器庫の収蔵だけでは不足だったとみえて,その後しだいに耀州・建州・汝州などの名窯に下命焼造せしめるようになった。く貢磁の生産時代〉越州から宋代の皇室に貢磁を進呈したことは,『呉越備史補遺』巻四に「王自国初供奉之数,無復文案,今不得而書。唯太祖,太宗両朝入貢,記之頗詳備,謂之貢奉録。今取其大者,如………金銀飾陶器一十四萬事。」という記載があり,これによって宋初の太祖(960■975年),太宗(976■997年)両朝にすでに始まっていたことが分かる。また,宋初の頃,皇室より越州に派遣された趙仁済という監陶官の名前を載せる文献も見られる。南宋末の周密が著した『志雅堂雑紗』に「李公略,蔵する所の雷咸百納琴………腹内の両妾の題に云う。大宋興国七年。歳次壬午六月望日。殿前承監越州窯務の趙仁済。再び呉越国王の百納雷咸琴を補修する。」とあり(注10),ここに記載-475-
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