鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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983年に「金銀陶器五百事」(注7)などの貢磁についての記載がある。宋初の頃,越常寺言…•鞄爵陶品,乞令太常寺,具数下越州制造,1乃乞依見今竹木祭器要焼造。」とされている太平興国七年(982)は,呉越国が宋王朝に帰属してから四年後のことであり,趙仁済が越州窯務の管理職に命じられたのは,宋王朝が地方小国である呉越国の勢力を接収してから,越州にある窯事業を中央政府のもとに管轄する政策の一つであったと思われる。また,『宋会要輯稿』及び『十国春秋』などの文献を総じて見れば,973年に「金稜秘色荒器五十事」,976年に「荒器萬一千事(内千事銀稜)」,977年に「銀塗金拍売器二百事」,978年に「売器五萬事・金釦完器百五十事」(注11),982年に「金銀陶器五百事J,州窯は五代に続いて“金銀飾陶器”,“秘色荒器”などの貢磁を宮廷に進呈したことが知られる。特に『宋会要輯稿』に「神宗煕寧元年(1068年)十二月戸部尚書上諸道貢物………。越州,綾一十匹,茜緋紗一十匹,秘色荒器五十事。」の記載によって,遅くとも1068年まで越州窯はなお宮廷用磁を生産していたことが分かる。その上,北宋末になって,秘色青磁の姿が消えるようになったことは,徐競の著した『奉使高麗図経』に,「悛祝出香も亦翡色也,上に躊獣あり,下に仰蓮ありて以て之を承く,諸器淮だ此物最も精絶,其余は則ち越州の古秘色,汝州の新窯器に大概相類す。」という記述によって明らかである(注12)。徐競は宣和五年(1123年)に使節の路允迪に随行して高麗に旅し,見聞した高麗の風物を写生した。その説明を記したのが『奉使高麗図経』で,翌年の宣和六年(1124年)にそれを皇帝に献上した。文中にある“越州古秘色”とは,北宋末になるともはや秘色青磁は存在せずと読み取れ,故に高麗青磁の色が古くにあった越州の秘色青磁に似ていると言われたのであろう。靖康の難の後,首都を江南の臨安府(今の杭州)に移して来たばかりの南宋政府は,金銀財宝がほとんど奪われ,皇室の祭祀に使用する祭器さえ失ってしまった。その際,一時的に陶器・木器などの代用品を使うことになったようである。その詳細について,宋・嘉泰二年(1202年)に成る李心伝(1167■1244年)が撰した『建炎以来朝野雑記』に記している(注13)。また,『中興礼書』巻五十九,明堂祭器の条に「(紹興元年,1131年)四月三日,太「(紹興)四年(1134年),工部言,具太常寺申,契勘今来明堂大礼,正配四位合用祭器,已降指揮下紹興府余眺県焼造……」とあり,なお同書の巻九,郊廟祭器の条に「(紹興十三年,1143年)四月二十九日,礼部太常言………今看詳欲乞先次円壇上正配四位,-476-

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