鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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合用陶器,併今来所添従礼爵姑,併依新成礼器倣“博古図”,内陶器下平江府焼造。其竹木祭器,令臨安府焼造。所有其余従祀合用祭器,候過大礼,申請改造施行,詔依。」と「(紹興)十九年(1149年)五月二十五日,工部状,握轄軍器所申……有陶器共二千二百三十八件,内有不堪四百六十件,難以添修,窃見太廟有陶器,見委臨安府添修,伏乞朝廷指揮,ー就令臨安府制造。」と記述されている(注14)。これによって,南宋の初頃は祭祀の需要のため,政府から民間の窯場に,陶磁器製作の命令が下されたことが分かる。その製作地は1134年頃はまだ越州にあったが,1143年と1149年になると臨安府(今の杭州)に移った。この臨安府の窯場というのは“南宋官窯”の先踪ではなかろうかと思われる。そして,嘉泰元年(1201)に完成した「会稽志』巻五“雑貢”の項に「皇朝務従閥省,以祥符図経,元豊九域志参考之,承平之久,雖微有増益,然以匹貢者,為綾二十,排花紗十,軽容紗五,表紙千張,売器五十事。今貢軽容紗五匹,越綾十匹而已。」とあり(注15),ここで「今,軽容紗五匹,越綾十匹のみを貢す」と言うのは,十三世紀に入って,越州窯の製品が貢磁として宮廷に進呈されなくなったことと考えられる。宋の開蒻二年(1206年)に趙彦衛が著した『雲麓漫紗』に,「青完器は皆云う,李王より出て,秘色と号すと。又云う,銭王に出ずと。今,処の竜渓より出ずるものは色粉青なり,越はすなわち文色なり,……。近ごろ臨安にてまたこれを自焼す,殊に二処に勝る。」とあり,十三世紀の始めに,都の臨安(今の杭州)ではすでに越州よりも良い青磁が作られていたようであり,宮廷用の陶磁器が必要であれば,直接に臨安から取る方が便利ではなかろうかと考えられる。更に,南宋末文人の記載に「本朝以定少卜1白磁有芭不堪用,……餘如烏泥窯,余挑窯,続窯,皆非官窯比。若謂旧越窯,不復見芙。」と記されている(注16)。これで,南宋末に越州窯から貢磁が奉献されるのは殆ど停止したと推定出来よう。文献のみにより総じていえば,越州窯の陶磁器が宋時代における貢磁を進呈,または宮廷の需要に応じるための製作の時期は,およそ960年から1140年代までの間であると思われる。く貢磁の特徴〉越州窯では古越磁の伝統を継承し,晩唐時代にも活発な生産が続けられ,そこでは秘色と称された青磁が焼造された。五代には,呉越国(907■978)の領内に入り,皇-477-

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