鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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萬事”等に比べてみると,逢かに及ばないのである。秘色磁器がいかに珍しく,また大事にされていたかということがこれより推測できる。さらに,それを前述の「侯鯖録』にある「臣庶不得用,故曰秘色」(注8)と連想すれば,越州窯の秘色磁器が皇帝の御用器であると思われるようになり,そのためであろうか,一部の学者は,それが焼造したすべての磁器を宮廷の専用に供え,商品である陶磁器としての性格を失ってしまった“宋代の宮廷に態断された三つの荒窯”(注21)の一つであるという説を提出している。確かに文献上の記載によれば,明の嘉靖年間に出版された『余挑志』に「秘色完器初出上林湖。唐宋設官監窯。尋廃。」(注22)との記載があるが,ここで「官を設け窯を監す」というのは,上林湖で焼造された秘色磁器を監理したことであり,それは決して「臣庶不得用」の官窯機構が設けられたことを意味するものではない。窯址の発掘や海外出土品の発見を別として,宋代に近い年代の日本の文献を取り上げてみれば,越州窯の秘色青磁は中国ばかりではなく,海外にも高級生活用品として輸出されていたことが分かる。「ひそく」という用語は『李部王紀』の「天暦五年(951年)六月九日御膳沈香折敷四枚瓶用秘色」に見られる。また,十世紀後半に成立した『宇津保物語』と十一世紀初頭に成立した『源氏物語』にもその語がみられ,「ひそく」が越州窯青磁の美称として日本貴族の間で珍重されていたようである。これらの文献より,越州窯の秘色青磁が,外国にもたらされ,日本にまで届いていたことが窺われるのである(注23)。また,中国の文献に取り上げられる例として,南宋の江少虞が著した『宋朝事実類苑』(紹興十五年,1145年完成)がある(注24)。「魏咸煕。………知杭州日……帰朝大治酒具。賓友集撰。陳越中銀相陶器。」この本は,宋太祖から宋神宗に至る百二十年余り(960■1085)のことを記している。また,江少虞がかつて宋代陶磁器の産地であった建,饒,吉,三州の太守を歴任したのに,その三か所の陶磁器に全く言及せず,ただ「越中銀拉陶器」を取り上げたことは,北宋早期に越州の青磁のみが珍重な磁器として注目されていたと思われる。また,文中にある魏咸煕の身分は杭州の知事だけであり,それであっても越州の“銀拍陶器”を使用していた。明確な作成年代である上述の中・日両国の文献資料によって,越州窯青磁は明らかに全ての製品が宮廷の専用に進呈したのではなく,また「臣庶不得用」のこともありえないと考えられよう。-479-

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