鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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の貢磁は国の外交や経済の面に広く用いられ,莫大な量が必要とされた。それ故に,唐代とは異なり,次第に国内の窯場が政府に管理されるようになった。つまり,越州窯はもともと民窯であったが,この時期になって役人の監督のもとで焼成し,その製品は官府や宮廷の専用するところとなった。このことから,呉越国における越州窯は,官窯の性質に近い窯場と言えよう。とくに,その出来上がった製品には,金銀などの装飾を施した,あるいは厳しく選んだ最良の釉色である秘色青磁があり,それらは専ら呉越国の御用器,もしくは外国への貢磁として使われている。『侯鯖録』に曰く「臣庶不得用」は,この時期に限られて言うのであろう。換言すれば,五代の呉越国の銭氏はもはや越州窯を官営事業の一つとなし,焼造できた秘色の青磁を皇帝自らの磁器として使用したこと,そして普通の官吏や庶民がそれを用いることができなかったことが認識される。要の増加とともに,北方の定窯,耀州窯,汝窯や南方の景徳鎮,建窯などの窯場の勢力が台頭し,どちらも優れた作品の貢磁を朝廷に進呈した。越州窯は五代の呉越国にとって唯一の窯生産地として非常に重視され,また北宋の初期には呉越国の管理制度や機構をそのまま受け取ったかもしれないが,その後になってただ貢磁を生産する諸窯の一つとなり,各窯の競争の上に,だんだん衰えていくのである。それゆえ,宋代の越州磁器は性質としては唐代と近いとはいえ,もとのような優位を失い,結果,それはもはや「臣庶不得用」の御用品とは言えず,各地方から徴収された特産品の一つとみなされた。また,たとえ宋代の越州窯に管理の官吏が駐在し,その完成した陶磁器を政府に献上していたとしても,その理由から御器窯の製品とは認められない。なぜなら,完成された越州窯の磁器の中で,朝廷に献上されたのは僅か一部のみであって,全てであるとは考えられないからである。他の越州窯址で発見された破片も,一部の精緻な製品を除いて,大部分は普通の民窯品で,質が粗い。その上,これらの多種な等級の磁器は,中国国内だけではなく,海外でも発見されている。そして,このような状況は越州窯に限らず,定窯・耀州窯などにも同じく見受けられるのである。つまり,上述の諸窯は,たとえ宮廷のために貢磁を焼造しても,基本的にはやはり民窯であり,商品としての陶磁器を主として生産していたのである。3'北宋に至って,中国が再び統一されるようになり,中晩期になると,宮廷の需-481-

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