井桁の向きが異なるだけで,母子の姿態や樋の位置に至るまで酷似する。井戸端の母子の『融通念仏縁起絵巻』からの図様の剰窃,と云って悪ければ図様の借用は疑うべくもない。となれば他にも図様の借用があるのではないか,と疑問がわくのは当然であろう。結論から述べれば,結果は当初の期待通り。実に多くの図様が先行する絵巻より借り承けられていることが判明した。まずは「融通念仏縁起絵』(清涼寺蔵)。すでに松原茂氏によって左隻の井戸端の母子の図様がこの絵巻下巻第七段に拠っていることが指摘されているため,さらにここからの図様の借用が期待されたが,もう三カ所そうした図様を見出すことができた。まずは右隻右より第二扇,戸の陰から半身を乗り出した若い女は,清涼寺本『融通念仏縁起絵』の下巻第七段往還を眺める女の図様〔図3〕を参考にしたのだろう。ただし同種のポーズを取った女は,例えば後述する『福富草子』(春浦院蔵)をはじめいくつかの絵巻でもしばしば見られる。が,左手を差し出した図様は『融通念仏縁起絵』の女に近似し,しかも井戸端の母子はじめこの絵巻からの図様借用が他にも認められる以上,ここは晴川院が図様を借り受けたのは『融通念仏縁起絵』からと見るのに無理はあるまい。加えて晴川院は樹木を描くにもこの絵巻を参考にしたようだ。右隻第二扇幹を中途で失った柳樹と同じく右隻第一扇幹を大きく屈折させた二本の松は,その特徴ある枝振りから,前者がやはり『融通念仏縁起絵』の下巻第三段に〔図4〕,後者が上巻第一段にえがかれたものを踏まえていると見てよいだろう。次に『石山寺縁起絵』(石山寺蔵)。この大部の絵巻からも晴川院は多くの図様を吸収したようだ。すなわちその巻五第一段の末,観音の利生で富み栄えた藤原国能の邸とその豪奢な生活ぶりか写されているが,そこに描かれた糸を嵯る女性〔図5〕とその左方厩舎に飼葉桶を中腰で運ぶ男の図様は,前者が男性に変わっているものの,本図左隻右より第四扇,藁を嵯る農夫に,また後者は右隻第三扇の同じく桶を運ぶ男に承け継がれていく。さらに本図の遠山の緑青をべた塗りした後,その頂き近くに樹木をあしらった描写も,『石山寺縁起絵』に頻出し,晴川院がこれを学んだことは間違いないだろう。本図を制作する上で,『融通念仏縁起絵』および『石山寺縁起絵』からの影響は思いのほか大きかった,とみてよいだろう。ところが,これら二つの作品以上に本図に多大な影響を与えた絵巻があった。『福富草子』(春浦院蔵)である。実際,このお伽草子を代表する絵巻からの図様の借用は,-488-
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