鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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像にならった形跡を見出だすことができない。弟子の擬冗の頂相にこのような現象があらわれるのはどうしてなのだろうか。当時の無準像の所在について一瞥してみると,円朗は,亡くなる5ヵ月前の弘安3いる(『聖一国師年譜」)。俊顕は幼い頃から円爾に近侍していた人で,信頼厚く,円爾の寄居していた常楽庵,普門院を与えられ,そこで無準所縁の品々を管理する。円爾は,これらを「敢へて遺墜すること勿れ」と言い置いている。時代は下って正和5年そこに無準像も記される(『円爾遺物具足目録』)。療几像が制作された正安3年(1301)当時も,おそらく常楽庵あるいは普門院で管理されていたものと推測される。擬冗像の制作にあたって,無準像の型をならうことができる,あるいはならうという発想自体が生まれる条件のひとつとして,無準像が円爾の手元を離れて,什物として管理されるようになったことがあるように思われる。さて,本画像には,以上のような形をならう点のほかに,様式的にも無準像の影響を受けている点が見受けられる。例えば,面貌における陰影表現や細部の緻密な描写である。鼻の輪郭線や顔の跛の線は,淡い墨線を用い,そこに朱墨のような色合の隈を重ねるように添えている。この描法によって,顔の凹凸を表出している。特に目の下に幾筋もの細い線で跛を描き,線に添って隈をつけて眼窯のくぼみを巧みに描出する点は,無準師範像と通ずる。また,鼻の周辺に隈をつけて鼻梁をハイライトのように塗り残し,鼻の立体感を表出する点,顎の輪郭線の下側に影をつける点,耳孔のつけねに濃墨のアクセントを入れる点なども,無準像と通ずる。中国より請来された頂相を手本として,我国の頂相の歴史は始まり,発展してきたとされるが,本画像はまさにその一つの例として挙げることができるだろう。しかし,先に述べたように無準像の形にならう一方で,改変を行なっている部分もい〈つかみられる。例えば,袈裟は異なる形のものに代えられている。無準像は金環上部の仏坐像を象った金具に紐を接続するが,擬冗像の袈裟は左胸の辺りで砥環の環を紐で結んで吊る。左手付近の描写も異なる。また膝前に垂れる部分では,無準像は縦方向に三本の条葉をあらわすが,擬冗像は二本の条葉をあらわす。異なる形式の袈裟を描いたためか,描法そのものが平面的処理に終わっている。納衣や法被でならっている肥痩豊かな衣文線もここでは影をひそめている。無準像の形に倣った部分とア年(1280)5月2日,無準像をはじめ,無準所縁の品々を,弟子正堂俊顕に委託して(1316)正月18日,普門寺(院)第五世奇山円然が,円爾具足の品々の目録を編み,-41-

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