鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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了同断花鳥二枚折一双吉野竜田一御衝立三脚ー脚ー脚西王母ー脚大和山水御厨子棚付一御巻物二巻鶴亀松竹梅右之通名前記し今日差出し了尤右之内友川儀ハ此度始メ而二付其段口上二而申とある。文政二年(1819)十二月,早くも鍋島貞丸(のち直正,号閑隻1814■72) と縁組みの調った盛姫(1811■46)であったが,わずかに九歳と,何分にも幼く,実際の婚礼に向けて準備が始まるには,文政七年まで侯たねばならなかった。そして,同年十一月朔日には少老増山河内守正寧(1785■1842)より伊川院栄信へ,盛姫引き移り御用の掛物・屏風について,絵様は“御先格之通”すなわち文政二年越前松平斉承(1811■35)のもとへ輿入れした浅姫の時の画題をそのまま踏襲することとし,筆者付けを差し出すよう命が下った。それに対する返事が,掲出した十一月十二日の一条である。見るように三幅対一具,二幅対一具以下,大屏風四双,中屏風二双,腰屏風二双,二枚折屏風一双,衝立三脚,厨子棚付巻物二巻一具の都合十五点セットが,引移り御用の内訳であったが,確かにその絵様(画題)はすべて,『公用日記』の伝える浅姫の引移り御用の場合と同じである。ひたすら先格(先例)を重んじた幕府ならではの指示と云えるだろう。だがこうした幕府の姿勢こそが,制作の現場における御用絵師たちの粉本重視つまりは図様の“典拠主義”へとつながっていったのではないだろうか。その意味でも「四季耕作図』は御用絵師の制作の典型であった。もっとも提示した筆者付の絵様がそのまま認められるわけでもなかったようだ。むしろ検討の結果,部分的に変更されるのが通例であった。当初の筆者付は,ーたたき台に過ぎなかった,と云うわけだ。だがそうした中で,すでに片桐弥生氏も指摘するように,大屏風の一双は「名所絵」,その他三双は「源氏絵」などのやまと絵系画題,中屏風と腰屏風の一双は「花鳥図」,他の一双は前者が和漢の「耕作図」,後者が「源氏絵」,二枚折屏風は「名所絵」と,それぞれ描くべき絵様には一応の原則があった(注大井川行幸-493-了承真笑探信友川柳雪柳雪

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