3)。また衝立三脚と巻物二巻の絵様も,晴川院が敢えて“初発5御居置之絵様”と註記しているように,少なくとも文政十一年(1828)晴川院が家督を相続して以来不変で,前者が「堂上桜狩」「唐子遊」「大和山水」の三図,後者が「鶴亀松竹梅図」で一定していた。云ってみれば,ここでも先例が支配していたのである。が,それはともかく,こうした遣り取りの中で,各絵様は決定されていったのである。無論,問題の『四季耕作図屏風」の場合も例外ではない。原案の「唐耕作図」が,ある時点で現在あるような「大和耕作図」に変更されたのである。では画題の決定(絵様伺)の後,いかなる手順を踏んで作品は完成されたのであろうか。これについては,すでに松原氏が整理されたように,画題の決定(絵様伺)筆者の決定(筆者付)→正式下命→下絵の提出(伺下絵)→本画制作→提出という手続きを経,それぞれに細かい遣り取りがあったのだろう(注4)。そのいちいちについては,他の画家の担当分でもあるため,さすがの『公用日記』も述べてはいない。しかし,晴川院および父伊川院担当分については,幸いにも『公用日記』の記事によって,ほぼ日を追って制作の経過をたどることができる。ただ注意しなければならないことは,二人が命を受けた掛物の制作については,“御表”からのものと,“奥”からのものとの二つあったことである。前者が将軍(幕府)からの正式の用命であり,後者が家斉の御台所(つまりは盛姫の御養憲子1773■1844)からなのか,生母於屋衛之方奥からの多少私的な用命であることは云うまでもあるまい。うけて,早くも十二月二十九日に伊川院栄信へ,三幅対と二幅対制作の下命があったようだ。晴川以下他の画家へも,これからそれ程間を置かず,命が下ったに相違ない。が,実際に伊川院が制作にとりかかったのは,半年以上も後の文政八年九月になってからで,九月廿二日伺下絵の提出十月十七日二幅対「松に白鷹・白梅に鷹図」完成,提出十月廿一日三幅対「西王母・鶴図」完成,提出と云う日程で完成。画題も当初の「浪鷹」(二幅対),「中寿老人左右山水」(三幅対)(■1843)からなのか,にわかには断定できないが,いずれにせよ“奥”すなわち大まずはそのうちの前者。これについては文政七年(1824)+—月十二日の筆者付を-494-
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